土地、そこに生きるための庭園を築くこと。
人と活きた土地が結びつく時、子どもは自らの土地に学ぶようになる。
親…と繋がった土地の中で、子供は自ずと成長していく。
親が土地をお世話する。
土地が子どもをお世話する。
そして、子どもが土地の新たな可能性を開く。
私は、気づいた。
今まで土地から切り離されていた。
だから、バカでアホになった。
子どもは生まれながらにして生き方を知らずに育った。
トンチンカンな頭、思考回路をもった大人になっていた。
世間一般と彼女の言うくくりの人たちは、
生きるということがどういうことか今一つ分かっていない。
私も含めてそうだった。だから、彼らに子育てを任せてはダメなのだ。
ここを見落としていた。
分かった。まずは土地。
土地の地盤を築いて、一緒に還る。
まずは僕らで学ぼう。
人が生きるにふさわしい土地、庭園を築く。
まずは実践、私自身がそう在らねばならぬ。
私自身が確かな生き方を築いた時、子どもは私の背中を見て育つ。
子育ての責務は、私の土地が担う。私の責務は果たされる。
空き家というものは、なぜ空き家になっているのだろう。
主を失った家は、役目を失い朽ち果てるのみか…
かの人は言った。
「あの樹は怖い・・・」
なぜだろう?
と視ていたら、何となく感じるものがあった。
あの庭に放置された木々たちは、悲しんでいた。
人の世話の入らず、放置された植物たち
縦横無尽に、秩序を失って、これまで主のために尽くしてきた意味を失って
悲しみながら、その切なる声を張り上げて…
張り巡らされた蔓は、石壁の鉄線を覆い、建造物を朽ちさせる。
その命を、自ら燃やすように…
「あの樹は怖い」
かの人の視点で見た感覚。
今を、目の前のことを視れば。
あそこは、人を寄せ付けたくない悲しみの声がある。
普通は、立ち入ろうと思わない。
けども、目先の光景など如何ようにも変わる。
彼らの行く先、可能性を幻視さえすれば。
あの場所は…
あの空き家の主は、かつて居た。
その時の名残が、お庭の景観に残っている。
そこから、感じ取る。今どうして欲しいのか?
残された子どもたちのことが気がかりか?
帰ってこない子どもたちのことが気がかりか?
子どもたちの役に立てない、自らの現状を嘆いているのか?
あの樹よ、草よ、打ち捨てられた幹たちよ。
あなた方の声に耳を傾ける。
今何を望む、私に何かできることはあるか?
今まで、自然相手のスタンスでずっと視ていました。
食べ物がなる土地、その環境が一区画あれば、イメージが出来る。
人は、食べ物によって活かされている。土地によって活かされている。って。
自然の中では因果応報だけが有り、それは親を介してでなく、自然から身をもって学べること。そして親は自分の庭園の中、子どもに全くの危険がないよう整えられた場を与えることができる。その場において、子どもの自主性に任せられる。
生まれた子どもの学び場は、与えられた土地・環境であり、そこで生きるために必要なことを肌で感じ、学び取っていく。自然が相手であれば…直に「食べ物」の恩恵を感じることが出来ただろうな…自然から、土から成るんだ。それをただ観察して、意味を感じ取り、収穫の時期に口に入れればいい。食材の調理や保存の知恵は、まずは先代のやり方を視て体感すればいい。
成長する内に行動範囲も広がり、違うやり方も学んで世界を広げていくだろう…
特に何も教わらなくとも、庭園の中で遊びまわるだけで、自分の行動範囲を広げていく中で、自然に学び取っていく(o _ o。)
これが、今の私にあるスタンス。どこかの本で見た内容にも書かれてあったけれど、自分の経験と照らしあわせ、そのように育ってきた自分には納得の行くスタンスだった。
生命線は自然。
だから生きるには、自然体でいるだけでいい。
とっても楽。食べる以外は好きなように仕事して、楽しんで生きていける。
すごい子育ても楽になるんだろうけどな…
自分は、そういう視点で今まで生きてきた。
だけど、今の時代の生活環境には、そういった学びの場は中々感じられないものだねって、周りを視て気づいた。
自然環境とかけ離れた家庭で、あらゆる人間関係の中で育てられるケースがあるんだって気づいた。
しばらく交流を重ねる内に、そこでは生命線が家族であり、その家で収入を得てる人(お勤め先についても)だった。
だから、人間関係...自分が家族に活かされてることを肌で感じ「家族」を優先するように動くんだなって。
その中で育てられた人の、人間関係を円滑にすすめる技術は素晴らしいものだ。
ただしその技術を遂行するためには、かなりの気遣いを必要とするみたい…他人の意向を理解しようと試みたり、他人の想いが自分に入り込んできたりして、本来の自分の意思決定に集中できなくなる、いろいろな人の意向を汲みとる内に迷って迷わされて芯を失くしかねい…初めてそういう場にお邪魔させていただいて、肌で感じて体感しました。混乱混乱。。・
何処で一線を引くか、明確な判断が難しい。ハードルすごい高かった。。。その代わりに、一般社会のうまく渡り歩いていくスキルは、まぁ得られる。で、稼ぐ仕事に集中できんのです…
ふむ(‘ ‘*)…
これは相違の話し合いをもってして。
お互いの役割と、見解の違いを明確にすべきだったんだな。
子育てについても、学びのステージや与えられる環境で、何が最善なのか…の視点が違ったんだ。
そうだ。逆に都会の子育てでは、根本の部分が、ベースの生命線が、すっぽ抜けるではないか!!
生命線が自然にあるという視点がない。
自分の意志の重要性が薄い。
一人任された時に、正常な判断ができなくなるわけだ…
きちんと、その子を視ていてあげないといけないわけだ。
一つひとつ、なぜそうなるのか紐解いていかなくてはならないのだ。
子どもは、全能である。
このスタンスは、庭園の中でこそ成り立つものかと。
そうじゃないかぎり、もしくは外の場に出向く時などは
最初にきちんと視て、教え、護ってあげなければならぬのかと。
ここを見落としてたことが今回の失敗。何もかも任せすぎた。
もし都会の中で育てる…見守るときは、子どもは何かやらかすという前置きをもって、きちんと視てあげなければならない。
いつか、庭園に還れるその日まで。
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- 人間関係, 子育て
- 2016年01月23日
それは言葉遣いに現れる。
これまで自分の言いたいことをどう話すか?としか考えられて無く、
相手がどう感じるかまでは頭にない。だから誤解を招く表現になる。
キミが上手く伝えられないのはその為。
総じて、想像力が足りてないということ。
あなたはその未熟さを、他の何かで埋めようとした。
それが、他者に対する攻撃的な物言いだったり、不安や焦り、なぜ理解してくれないのか!と他者を責めることでしか、表現できなかった。
それでは上手く行かないのだ。なぜか? 物言いが不完全だからだ。
相手がどう受け取るか…という思いやり・想像力が足りてないからなのだ。
。。。。。。
と、気づきの機会を得られました。
まぁブログ上では、そんなん関係なく、その時の想ったことや体験を素直に書くんですが(何がそんな感情を思わせたか、後で知るのに役立つから)
一方で、万人向けのコラムを書くときは
以前から自分の言葉を、第三者の目で見ることをしてます。
相手がどう受け取るか、というのを、読み手の立場で意識しつつ、逐一修正を重ねていってます。
万人に発信するのに、明確な意図をクリアに伝えるために、受けての立場を考えることが必要だとは、もともと理解はしていたのです。
しかし、今まで自分自身の基準でしか判断できなかったので、時間経過やその時の精神状態の差を利用するしか無く、最終稿までにとてつもない時間を要してました。
これ、現実の会話になると、時間掛かり過ぎて言葉にする難度は半端なかった。
あまりにかけ離れた考えの人には、理解される言葉で話すのは、とうてい無理だと諦めてました。
だから、まず他人と話すときは、概ね聞く方に専念してました。
自分と意見が合わない、衝突が予期された時、お互いのために自分からは敢えて話さないことを、選択してました。逆に意図せず聞き流してたりとかもあった…親子間であってもそう。
それで平和的に過ごせるし、周りとも上手くやっていけてる。ただし身近な親からは、あなたそれ大丈夫なの?って何度も聞かれる。そこは問題ないと応える。何度も…ううっとおうしい。
大丈夫だと自分の中に揺るぎないものがある。実際にやっていけてるではないか…! って、そんな心境でした。最初から信頼してくれりゃ、自分のやることに集中できるのにな。
まぁ、ときに話せるな?と想った時に、自分の言葉で話せる機会も出てきて、その範囲において分かり合えるケースも生まれてきます。親でも、他人でも。
それに、行く場所行く場所で同じような考えを持つ人には巡り会えるわけですから。
自分たちの分かり合える範囲で、一から作っていけば良いんだと。ある面で、広く浅くの人間関係で満足してました。
しかし、心からすべてを伝えたい人がいる!となった場合、さらに学ばねばならなかったのです。
普段の会話でも、出来る限り考えて、相手の立場や受け取り方を理解しつつ、段階を追って発信することを。
言葉遣い、思いやりであったり、相手に与えるイメージのきっかけ。
外観、第一印象。その人にとっての一般常識に失礼のないようにすること…
今まで不必要に思っていたことが、そこで必要になってくるのだと思いました。
なるほど…と思った(‘ ‘*)
今までは、自分自身が生き抜くために、この世界の成り立ちへの理解のみに集中してました…
主には、私たちの為に元々あった自然に対して。食べ物について。
自分の生きる場所において、どういった素晴らしい世界が実現しうるのか…
あえて目先の現実から距離を置き、夢を、一人思案し続けてました。
だからこそ、身近な人の思考回路にない、より人間らしい生き方の概念を見つけていけたんだと思う。
その代償に、これまで身近な人の気持ちを把握することを一切考えなかった。
いや、把握してたからこそ、その壁に衝突してまで関わろうとは思えなかった。
自分の理想を明確にするにあたって、その人と関わることは不必要だと判断したんだ。
想いに共感した誰か、付いてきてくれる人がいれば、それでいいと思ってたんです。
この選択は、自分の人生を歩むことに集中できるメリットが有ります。基準がシンプルなうちに学ぶ。おそらく、赤ん坊の段階で誰しも学べる機会を与えられてたはずです。
⇒ 赤ちゃん視点での学び(の一例)
こうして自分(=元々の自然と同一)の単位で考えた時、どうすれば居心地よい「 」となるのか。想像性を、思う存分に発揮することができる!
そうして未来まで見据え、ゆくゆくは未来に、子どもたちに、より望ましい「 」を与え継ぐまでの筋道を。指針をはっきりさせていく。。。
…につれて…
やっと身近な人との関わりあいについて、教わる場面に巡り会えたのでした。
⇒ ここからは小学生レベル(思いやりとか気遣いとか)
この先、生きていく場所には、それぞれの役割をもつ色んな人が居るわけで…
環境を考えるならば、そこにいる周りの人たちのことを理解する、気持ちを想像することが必要になってくるのだなって。
気づいたのでした。
今この段階。
誰もが始まりは、自分自身のことからだった。自分自身を理解することから。。。
それが広がって、母親、父親、兄弟。親しい友人関係。親戚…お店や学校、働く場所。
この先、どのようにすればお互いに素晴らしい人生になるのか。
少しずつ、分かり合えるようになっていくのでしょう。
人間の学びというのは、よくできています(‘ ‘*)
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- 人間関係, 子育て
- 2016年01月17日
こんな記事を、以前書いていた。
⇒ お母さんの住みよい環境づくり
子供にとって望ましい環境の、一番ベースとなる部分…
っていう視点で、去年の6月ごろにメモしてました。
一応、結婚を控えた身なので、こういうこと前もって思索してたんですよね(‘ ‘*)
必要なのは、心の余裕、配慮・思いやりになるのな。総じて器の大きさか。
人間って、わりと失敗を経て大きく成長するものだから。
いきなり完璧を求めなくていい…失敗やつまづきなんて誰にでもある。
そこから生まれる閃きや学びは貴重だ、相手の失敗を受け入れる寛大さ、お互いを活かす大切な要素になってくるだろうな。
まずはお互いの考え方や生活スタイルを、一緒に味わってみる。存分に引き出す。
もちろんそこには、他人が視るからこそ修正したい部分や優先順位の違いが在るんだが…
でも、中には自分が今まで観えてなかった大切な要素が含まれてたりして…
お互いのどれほどを存分に引き出せるかで、
お互いの斬新な閃きと失敗を積み重ねていくことで、
何かある度に話し合って、うちら大きく成長していけるのぅ。
のためにも、まずは受け入れられる器をしっかり持つことか。
相手の為を思うからこその不安ってつきものだけど、その不安は逆に自分自身の成長を促してくれる。
大丈夫、少しずつ乗り越えられる。自分たちのよりよい未来に繋がってると信じて、穏やかな心で見守っていて。
続きというか以前の話というか
⇒ http://goldenflower.jp/blog/2957
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- 人間関係, 子育て
- 2016年01月08日