自己犠牲な人と一緒に居るのは負担ね

自己犠牲な人…過去の自分(‘ ‘*);;;;;

あああああ。ごめんね…
かなりかなり消耗してたね。

なりふり構わず、やりたいことも我慢して義務を全うしたのでしょう?
ぎむぎむ・・・?
 

そんなの誰も望んでないのに。
あのね、嘆いてたよ。

もっと自分大切にしてって。
意識が全然自分の方に向いてないよ。
そんなの、あなた自分に目が行き届いてない

知らず知らずに消耗してても気づいてないじゃん。

 
隣の人が見たら、嘆き悲しむ。
こうすればいいよ、ああすればいいよ。
外から見たら気づくからね。

ただそれ伝えても、本人自分のこと無頓着だったら
それ後回しにしちゃうね。

心配ね。

 
そーじゃない。

隣の人は、あなたにこそ必要だと言いたいのに。
どうして? そんなに自分を大切にしないの?

嘆き悲しむね。
見たくないね。

 
結局自分で気づくしか無いの。
意識を向ける方向の問題。

何をするにしても、自分の身体が資本ですからね。

自分に意識を向けるのは、最低限必要なことだった。
気づいた部分だけ、は、自分でケアできるようになる。

あとは、他人に気づかせてもらうか
目の前の鏡をみて気づくか。

 

意識が向けば、取り返せる…


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愛に犠牲は付き物ですか?

以前こんな記事を書きました。

無償の愛は存在しない

 
今回は、これの続きを書くのです。
「愛に犠牲は憑き物なのよ」

誰の言葉かは忘れたけれど、きっとこの方はこうだったんだろうなって。
ちょっと感じました。

人を下に見てたんだなって。

 
私自身、そういうフシがあったのですよ。

してあげること。
お世話すること。
助けること。

これによって、優越感?みたいなのがあったような無かったような…
自己陶酔に似た感覚ですね…

 
特定の人を助けたい。
そればかり先行してたあの頃は、
たぶん自分を犠牲にすることを美徳だと思っていたのでしょう。

だから、してあげる
こちらから差し出すばかりで
相手から受け取ろうなんて思いもしなかった。
受け取れるものは無いって思ってた。

 
相手は何かを差し出してくれていただろう。
でも、受け取るなんて変なプライドが許さなくて、
見えないフリをしたのかな?

そこに貴重な学びがあるとも知らずに…

 
真っ逆さまね。
 
ということがあって、今こんなことを思う。

 
でもね、考えてみると。
これだけの考察を深められるようになったのは
まさに「助けたい」意思が引き寄せたことなのです。

だから必要な情報が集まった。

 
私、もと調理師で昔ながらの料理法とか結構やってたから
油ちょっとくらい良いじゃんみたいな感覚で料理してたんですよ。
そしたら、油に相当な拒絶反応示すじゃないですか。

ああ、フライパンに使う油って身体に良くないんだなって
その時けっこう考えて、違う料理法を見出す機会を貰ったんですよ。

結果これらの技術がですね。

ウォーターソテー
低温蒸し

 
私自身が、もし親身に接していなければ、一般大衆のような油使う料理で満足してた。それが今や、もっと健康的でさらに美味しくなれるレシピを体得できたのです。

 
乳酸菌もそうだ。
今試作中の酵素玄米も…

動機は、相手を気遣うものであれど
結局は、それが自分の糧として技術を体得できている。
今現在、そこからレシピを開発する楽しみにもなっている。

 

愛に犠牲はつきものなのか?

 
差し出せば、違う形で何かが返ってきていると思えます。
付き合いは対等で、どんな形でも目の前に学ぶべきメッセージは常にある。

  
犠牲だと言うのは、

自分の意志で助けてないか、無理しすぎてるか。見落としてるか。
或いは人を下に見てるか、其処から何かを受け取ろうと考えてないか。

どれも勿体無いばかりだと思ったのでした。

 

。。。私は当時、無理しすぎました。
後は、前回の記事に書いたとおり。

正直、コレ以上は嫌気が差してました…
人と関わりたくない。まで行った。
他人への憎しみ、呪いはそこから生まれた。

自己犠牲を錯覚させる言葉は、愛じゃないのです。

 
はい、解散(。◕ ∀ ◕。)ノ


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BBQにて(o _ o。)

食べ過ぎ、翌朝きついで候。

網焼きでぐわ〜って焼いてたから、けっこう硬くなってた。
お魚さん美味しかったけど、みんな飲むのに夢中です。
食材余るから食べ過ぎた。ぬし〜。

バーベキュー、網焼きより下に鉄板敷いて水張ってるといいね。
蒸気で食材が酸化しづらくなると思うし、焦げ付きもましになる。
というのを思ってたら、そういえば焼肉店ではそうなってたような…
(焼き網の下に水が張ってある)

そういう原理だったか。

 
さて、バーベキューということで、子どもたちと盛り上がったけども
お腹、すっごく消耗した感じです。
が、この一連でけっこう分かったことが有りました。

たまに一般の感覚に触れると、こんな状態なんだな〜ってよく分かる。
ちょちメモしていこうと思います。


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人の話は話半分くらいでちょうど良い

人の話は話半分くらいでちょうど良いですね(‘ ‘*)

 
もともと、自然界にある言葉を。
人間にとって理解しやすい形で、細かく話すのが人語だから。
たま〜に、細かすぎてどうでもいいことがあります。

もちろん、人は自分の目線をもって生きてるから
その目線を中心に、今起こってること。これから起こること。
自分のしたいこと、今置かれてる状況。考え方を話すのですけど。

 
それは視点がその人の言葉。
中心が、私とは違う。

生まれた時代も、生きてる場所も、境遇も。
全く違う。その人に合った言葉。

 
だから、私には関係ない。

へーそうなんだ(‘ ‘*) ふーん。
そうだねー、すごいねー。

 

おわり(o _ o。)

 
そして、私の中にその人のキャラアクターが生まれるのです。
こういう人は、こういう理念のもとに動く。
その人の視点や考え方も、少し理解できるようになる。

 

こういうの話半分くらいで、私にはちょうど良いようです。
100%理解に努めようとしても無駄、その人(組織でも)の考えに「染まりきって」しまうと
視点が狭まり何も見えてこない、逆に思考が囚われることもあります。

すると自分の生き方とは意図しない方向に流される場合がある。
ほら、あの時の失敗は。

 
 
人間は今、不自然さを兼ね備えた存在だもの。
話半分くらいでちょうど良い。

私は私。

 

耳を傾けるのは、星の言葉。森の言葉。植物の言葉。
今、目の前にある存在の、発する言葉。

心は物言わぬ振動から、その意図を汲み取ろうとするのです。


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善悪の知識の実

別名「アダムの林檎」

聖書では、善悪の知識の実を食べることによって楽園から追放されたとあります。
なぜ、善悪の識別を得ることが追放につながったのでしょう。

 

私は自分の体験談で、このように思うことがありました。

私にとってサプリは悪。必要ないもの。

 
けれども、ある特定のグループにおいては

サプリは救いであり、必要あるものでした。

 
過去の記事 ⇒ サプリメントの必要性は?

 
 
物事は二面性を持っていて、視点の違いによってその両方になりえます。
もとより、自然界や宇宙は善悪の識別を持ち合わせてません。
ただ因果応報がそこにあるだけです。

善悪とは、視点を固定化したときの一方的な判断基準でしかありません。

 
他に例を挙げてみます。

盗みは悪だ

善悪の識別を持った段階で、そのような風習を人社会にはびこらせます。
確かに盗みはよくない。これによって、盗みを働いた悪人は罰せられても仕方ない!
という世論が出来上がります。そして悪人を捕まえて裁くことを善と考えるようになります。

これが、善悪の知恵の実がもたらす結果であったと推測できる。

 
しかしこういった絶対的な判断基準は、その者がなぜ盗みを働いたか?
なぜ盗みを働かざるをえなかったか?というトコまでは、見えなくします。

もっと具体的な例を挙げれば
 

楽園を追放された後の農耕時代、とある家族が住んでいた。
一人の子供が悪事を犯した。親が、その子に裁きを下した。
 
その罰した内容が
 
「家族と故郷からの永遠の追放(家なし宿なし文なし)と
 農耕技術の剥奪(畑から食べ物を育てられない)」
 
この2つだとします。
その子供は、この先どうやって生きていけばいいのか。
故郷からの追放、お金もない、全く知らない未開の地、食べられるものが何もない。
そして自分で食べ物を育てることも出来ない。
 
ならば、どうするか。
他から奪うしかなくなるのだ。
 
後に彼は、鍛冶師となって鉄の槍などの武器を生み出し
略奪や狩りをして生き永らえた。

 

という一例。

この場合、何が悪なのか?を見るより
悪事を働かざるを得なくなった原因は何処にあるのか?のほうが重要であると思われます。

この時、表面的に善悪の判断基準を持って裁いたがために、
罰されたものはますます悪に手を染め上げなければならなくなった。

 

善悪の判断基準は、視点が固定化されたもの。
周りの状況や、その因果関係を見えなくさせるのでしょう。

人は、最初から悪事を働こうと思って生まれてこない。
必ず何かに必要とされて生まれてくるし、
生を与えられた段階からその役目を果たそうとする。

しかし、その者が思わしくない行動を取る時
どこかでその純粋さが曲げられたのだ。と考えます。

 
善悪の知恵の実は、善い物でも悪い物でもないでしょう。

問題はそれによってもたらされた善悪の基準が、
それを食べた人の視点のみに固定化され、それらに皆が強制させられたこと。

= この時、あらゆる視点を持つ自然や宇宙から人々が分断された

 

自然や宇宙の摂理から遠ざかり
それらとは繋がりを絶たれた人々が決めた
善悪のルールに縛られた社会。

その延長線上に、今。

 

 

もちろん、これは私が見た物事の一面性なので
絶対正解とかありません。

ただ、ここから僅かでも学んだことで

 
批判や反対運動は、それに取って代わる者が交代するだけ。
不毛な行いかもしれない。という考えに変化していきました。
そこに善悪の判断基準が無くなっていないから。

 

原発は目先の経済から見れば善であったし
TPPもホンの目先の経済から見れば善であった。
大多数にとって、ありえない取り組みですけどね。

 
それよりも、私たちが繋がりを取り戻すことができれば。
因果応報を自分たちで感じることが出来たならば、何も問題なくなる。

たぶんこんなふうに、
ただ目の前に存在してるモノたちがどれだけ偉大なのか
その価値に気づくだけで違うと思うのです。

大豆イソフラボンの効果から学ぶ
 
 

誰かの教えや価値基準から、自分の思考を解き放つ。

私たちは、地球上に住んでるから。
私たち一人一人の生き方が地上に何をもたらし、どのように自分に返ってきてるかを感じ取ることができれば
少しずつでも、私たちの望む方向に進んでいけるだろうと思いました。


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