自分が正すべき部分に気づけば、病は治る

病になるのは原因が在る。
自分自身が、何かを見誤ってるからそうなる。

 
だから…
たくさんの知識を得た。勉強した。多くを試した。
なのに治らない。なんで??? てなるケースも多いと思う。
 
だがそれで、「自分は正しい!やるべきことはやった」
と頑ななうちは、治るべきものも治らないんだと分かった。

 
 
実際、誤ちの本質的な部分に気づけてないから、病が続いてるとも言える。
色々試してハズレだった場合、その正すべき核心部分に行き着いてないのだから。

あらゆることを試して治らない…なんて言っても、
自分の見てる範囲でしか物事を理解してないに過ぎなかったんだ。
それ以外の部分だ、今まで気づかなかった、もっと初歩的なこと、或いは受け入れがたい部分かもしれない、にも触れてみないかぎり、やはり治るべきものも治らないままだったと思う。

 

持病が長い人ほど、そういう傾向にあると思う。
だからこそ、簡単なきっかけで改善したりする。

だって原因は、家族や自分自身、普段関わる人以外の第三者の目線で見た場合、
何でもないような初歩的なことだったりするのだから。

 
今まで自分が見てなかった、気付かなかった全く別の視点で、自分を省みれば良かったわけだ。

 

例えば、私自身の場合、また皮膚の湿疹が再発してました。1ヶ月半ほど。
普段、食事にも気をつけるようになった、素材にも気をつけるようになった、環境の配置にも。

なのに、なぜまた湿疹???????

 

っていうのが、ここ連日仕事続きで自身のことがおざなりになりすぎて
掃除もろくに行き届いてない状況が続いてたわけですよ。

…の為のシンプルライフ(物のない暮らしで掃除しやすく)をもっとーとしてたわけですが…
まぁ、色々立て込むことがあって、満足に掃除が行き届いてなかったわけです。

皮膚の湿疹の原因、食べ物だけじゃない、お部屋には普通にホコリとかあります。
掻きむしるから、普段の健康な状態の時よりめっちゃ酷いんよね。ホコリ。
で、シーツ。。。1週間とかそのままだったりしました。
皮膚の屑がいっぱいです、ヤバイですね。。。ダニとか…

 
もうね、無理ゲー。

 
 

今まで、自分自身いろんな経験や学んできたことがあることで、ここさえ気をつけてりゃ大丈夫だ、って食事面、環境の構築面、すっごい気を使ってたのですよね。でも、それで自分は万全だと想ってて、そして調子を崩した、自分の見える範囲で改善した、治らなかった、症状が続いた。。。

となれば、やはり見落としてる部分があったわけです。
今回のダメだった箇所、弱って余裕がなくなった時のメンテがおざなり。。。

心機一転、掃除しまくりました。
なんか体調が違うんですよね〜。うん、快調。

 

というふうに、病の根本は、自分が正すべき部分というのを見落としてたことだと感じたわけです。
今回は自分でない、第三者の存在があって、ここに気づけた。

そりゃ自分の感覚で治せるに越したことはない、が、方法はこの限りじゃないんだな。
※前回の記事とか ⇒ 自然治癒力で病は快復できる

 

まぁ、たいていの人は病院行くのだろう。
それで治せるなら良いんだ、第三者である主治医からアドバイスをもらって、それが改善のきっかけになる場合もある。
代替医療とかもそうね。色んな方法に触れるのは良いことです。

ただ抑えるべきことは、病を治すには、根本的な改善部分に自分自身で気付くこと、自分自身が気付くべきということなのだ。

 
自分自身で気付くためには、自分自身の痛い、苦しい、というのを客観的に見つめる。
どこに原因があるのかを見つめられる冷静さが一つある。

もう一つが、自分で見落としてることも、第三者の目線だと簡単に原因が分かったりすることなんだ。
色んな人の話に耳を傾けようとすればいい、一見、受け入れがたいような他者の感覚とかでも、いや…むしろ受け入れがたいものほど、実は自分の誤ちに気づかせてくれるものだったりすると感じる。

ハウスダストに目が行ったのって、病院の診断結果のお陰なんですよねー(棒

まぁ、不摂生が原因だったのは間違いありませんでした。
が、すでに告げられてたハウスダストにすら引っかかってたとか、正直バカみたいだった。

病なんてそんなもんだ。
自分がバカに思えてくればそれで良いんだ。
バカな自分に気づいて、さらっと直してそれでいい。

 
自分を変えようとしないうちは一見、難しいように映るかもしれん。
まぁ、自分たちだけでは不可能な場合もあるだろう。
ただ、自分たち以外の色んな第三者の視点を借りることで、ハードルは一気に下がってくる。

 
病は治る。治すために、苦しみという感覚がある。
囚われず、沸き起こる感覚の変化を、淡々と見つめる。
そうやって苦しみと接すれば、改善点は見つかりやすくなる。

それと平行して、今までと違う物事の考え方、他者の目線を取り入れて視るのも手。
病のおかげで、狭すぎる自分の視野を自覚するわけだ。


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本音をさらけ出して全てが始まった

本音は、その人の有り様。

  

今日は子育てに纏わるお話し会があった。 

その大きな女性の先生は、ありのままを話した。

そのものがリアルに、感じたままに表現されていた。

 

良いも悪いもなかった。 

起こった状況、場面を、感じたままに伝えてた。

聞いててリアルに想像できた。母の感情があった。子どもの感情があった。

  

思ったように話した、伝えた、かわいい、うれしい、寝てる時が一番、起きたらてんやわんや、思い通りにいかない、腹立たしい、ふてぶてしい、いうこと聞かない、何度言ったら分かるの? 反省、苛立ち、それでも我が子は可愛い。かわいい。。。

そんな感情の動きを、まるで見てきたかのように話していた。
とても分かりやすい。母と子の一場面が、簡単に想像できた。

 
その語られた言葉からは、はっきりとした輪郭が、存在感が、想いの形が宿ってた。一見ぶつかり合ってるように見えて、思い通りにならないのは「順調よ」って受け入れてた。だから、ありがちな凸凹ドラマに触れられて、面白おかしくも合った。親しみも湧いた。思わず共感する。そんな一面。誰しもがそうやって、思い思いの意志をぶつけ合って、学び合って、大人に成長していくんだねって。

 
子ども言いたい放題、わがまま放題。
それに対して、親も大人も言いたい放題www

でも、そこにはお互いを大切に思う気持ちが存在してる。
そうやって本音のバトルが面白い方向に(。◕ ∀ ◕。)ノ
人間性豊かなエピソードが繰り広げられていきました。
 
 
 

 

さて、自分が子どもの時は、どうだっただろう。と振り返ってみる。
まず、当時から母は、母一人で何もかも背負おうとしていた。子育て、仕事、家事のことで精一杯な状況に映った。祖父母の支えあってこそ生きていけたが、そんな母の大変さを知っていたからか、母には子どもながらに余計な心配をかけないようにしてた。幼いころから、いつ何を尋ねられても「大丈夫、心配ない」と答え続けた。母に対して負担にならない立場をとった。

「あんたは聞き分けの良い子だった。賢い子だった」

 
これが、後で聞いた当時の評価。

まぁ、母は一人で家を支えるためにずっと何かを頑張ってるのを知ってたから、邪魔しちゃいけないと遠慮し出したわけで。お母さんは大変。だからわがまま言っちゃいけない。次第に、普段思ってる感情から、母の負担になる言葉は口に出さないようになった。望まれた通りに見せる。勉強するふりをする。そんな母に対する態度が、そのまま外に対する態度になったように思う。

 

言われたことに対して

「やってる!!!やってます!!!」

で ⇒ やってるふり、頭ン中は別のコト
 
人間らしく、けっこう行動は正直に出るんやな。

 
そういえば、よく言われてた。

「あんたは、言っちゃいけないことを分かってるね。言っちゃいけないことを口にしない。賢いね」

この言葉は、思ったことの全てを伝えられない性格の裏返しでもあったわけだ。ある意味で良い場面もあるかもしれんが、本音の全てを話せない制限は、けっっこう引きずっている。大人になった今、まさにこの部分で躓いている。自分の感じたもの、思ってる言葉が、相手の思惑と「ぶつかる」気配を察知したら引っ込める癖。

・関わらない
・無言を貫く
・遠目に見る
・聞いたふりをする

そうやって、今まで生きてきたな。
意にそぐわない言葉は、記憶に残らず闇の彼方。
年を重ねる毎にひどくなった。何も自分の意に合う状況でなくなってったからか。
本音の殆どが閉ざされた。あるとすればゲームしてた時くらいか。
 

全ての本音は、いつも自分の中でだけ。
自分一人の世界で、思うがままの本心が渦になって、ぐるぐる。
が、いつからかインターネット、今まで外に出せなかったそれらを形にする最良のツールと出会った。

 
サイトは、共感できる人だけ視る。だから有りのままをさらけ出せる。
インターネットの中で、本当の自分を初めて可視化できた。音と言葉。イメージの可視化。ここから、本当の人生が始まったように想う。インターネットの中だけで。自分の名は「あきの」と響かせ。「あきの」の書いた作品が今日に残る。
現実のそれよりしっくりくる名前と、本当の生き様と、作品、足跡を残せる場所を手にした。

 

現実の繋がりでは、本音のすべてを見せられないでいる。誰に対してもぶつかることがない。だから多くの人に受け入れられて頂けてたのかもしれない。広く、浅く。
かといって、踏み込んだ付き合いができてるわけでもなく、人脈も殆ど活かせてない。

 
自分自身「思ったコト」を話すよう心がけてるけれど、誰に対しても、親にも友人にも、仲間にも。師にも、心許せるはずの存在にも、思ったことの問題ないような部分までしか伝えきれておらん気がする。本心、けっこう臆病に引っ込めてる。。そのせいで、たまに違う結果に陥ったりもした。言ってることとやってること違うよねって。そんな状況。

(本音を言えずに流されてたのか! で、当の本人、本意でない結果を目の当たりに、こりゃ駄目だと放置。無責任な結果を産んでたのだ! 人が絡むと、いつも望んだのとは違う状況になって、わけ分かんなくなるな。後始末のほうが大変! だから、自分のことは自分だけでやりたかったのだった。望みのもの、自分一人で卒なく手に入れようと思って。それが一番間違いなくスムーズだと思ってた。しかし、それを色々な社会体制が障壁となって無理難題な現状)

と、どうにも不満足な経緯があって今のこの状況か。
 

振り返ってみれば、自分の弱さは、本音を語りきれない部分にある。
たった一人でも良い、誰かに自分のありのまま、全てを伝えきれたなら…そこから変わっていけるだろうに。
今まで悪い意味での遠慮。相手の負担になっちゃいけない。からなる、伝えきれない言葉が、距離感と燻りを産んでたわけだ。

自分はこう思ってるのに!!!
伝えきれてない、だから望んだものが未だやってこない。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

今日は目の当たりにした。

本音で語る。
今日、話してた先生の言葉は、存在が圧倒だった。
確信を持って話していたからだ。強さがあった。

 

本音で語れる強さが、何十年もの実績で培われていったのだと感じた。
同じ本音を語るにしても、なぜにこうも違うのか?
自分に確信を持てるか否か。なように想った。

 
遠慮。という枠が無く、本音を伝えられる強さは、外のありのままの反応を受け止めきる度量あってこそだ。何とすばらしい存在感なのだろう。

 
きっと本音で語れる最初の存在は家族だった。
親と子の関係から、始まるのだと思った。
または、その代わりになる誰かなのだと思った。

 


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愛情と仕事

愛、愛するって、そのことを一心に想うことだろうな。
思ってる間、そのことしか頭になくなるよ。
愛、人に対するのも、自分に対するのも。

 
で、世間の普通は、仕事しなければ生きていけない世の中だ。
そこに、愛すべき人を想う余地は、存続するだろうか?
100%目を向けるなんて、仕事を抜け脱さないかぎり無理に等しい現状だ。

普通一般って、俺には世知辛いよ。
って、案外誰でもそう感じてるのかもしれない。

 
でも違う生き方、仕事なくして生きていける環境は、すでに色んな場所に存在してる。
何もかも許される生き方はある。何者も自由を約束される生き方がある。
何もかも許される世界を知れば、誰でも愛情を無限に感じとれるものだ。

 
日常にない、いろんな場所を知ることで、そういった世界も目の当たりにする。
自分も、そんな理想的な環境を実現したい!って想った。ずっと思ってた。何年も、何十年も。

 
それがなぜ、知ってて自分の目の前に実現できないのか。
実現までの段階を踏めてない、と言われればそれまでだ。
正解のプロセスを歩めてなかったとも言えるが、現状視えてる範囲で足掻くしか無い。
今までのようにあがいて、あがいて。って、殆ど変化がない。何を踏みとどまっているんだ???

今までと違う行動を起こす勇気がなかったのか?
自身を変えられない甘さ、怠惰を、衝突を避けることを!現状維持の辛すぎる努力を!
褒められるべき美徳か何かと勘違いしてたんじゃないのか?

そもそも今までの仕事の在り方に問題があったんじゃないのか?
このブログの存在意義は何だ?

  
それとも単に、実現まで時間がかかるということなのか。
というか、その片鱗は何処に在る?
これから始まるというのだろうか?
 
 
何か進んでは居ると思う。。。
だが、形になる未来が何年先か知れん。

 

実現の目処が立たずして 
俺に人を愛する資格はあるのかと問い、返答は臆さずな今。
世間一般の生活様式を選んでしまえば、自分が生きるだけで精一杯。無理。
稼ぎなんてギリギリだ。色々無理があるのが現実なのだ。。。

八方塞がりだよな。
だがそれも今の選択肢が狭すぎるのが原因だろう。
(後で選択肢を広げた時、今までの視野の狭さを思い知らされた)
 

段階的に、今の自分たちができる生き方を模索するべきだろうかな。
てか、自分たちの身の丈にあう環境を模索すれば、案外簡単に段階踏めるんかいな?


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生、死

活きたものを食べると、そのものの死を身近に感じる。
死によって、自分が活かされることをダイレクトに知る。
 
 
まだ幼い死者の魂は、私に全てを託した。
そして、何をするにも許してくれる。
1秒1秒の時間が、与えられたものだと知る。

 
嫌でも、生きる価値を自身に知らしめることとなる。
この新芽の未来は、私自身として生きる。


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死は生の糧

生が及ばぬ時、死を迎える。
死は、黒く朽ち果てるもの。

土に還る。

 
その土にはメッセージが宿る。
私はこの場所で生きられなかった。
だから、せめて新たな生の礎になりたい。

 
我は死ぬ。
我が死ぬことでそなたが活きる。

我の死は無駄ではない。
全てを糧としておくれ。。。

 
静かな、叫び。
死者の声。死者は、これから生きる未来の糧になりたくて、その道を歩んだ。
生きてるものが、生きてるものが、それに応えてあげなくてどうするんだ。。。

 
だから、死は尊厳に値するもの。
お陰で、現に私は活きている。
死を尊ばずに、死者を弔うことなど出来やしない。

私は活きている。。
何よりも尊い、死者の魂と共に! 私自身として活きている!!


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