子育てに自信がないとき

自信の無さの現れ



2015年現在、一人の大人として、多くの人々は戸惑いの中に居た。
新しい命に向き合うそのとき、喜びと同時に、不安も感じていた。

「自分に、この子を正しく育てられるのだろうか?」
「どうやって育てたらいいか、ほとんど分からないよ?」
「自分たちが生きてくことすら、ままならない現状なのに。。。」


自信の無さの現れ。
自分は常にコンプレックスを抱えていた。
愛する子が、小さな身体ではどうしようもない部分を、親は助けなければならないのに。
まるで、自分は何も出来ない。十分な環境が与えられていない、それを実行に移せる場がない。

お金もなく、実家の隅っこに与えられた部屋、もしくは小汚いアパートの一室で、肩身の狭い想いで生活している現状。
こんな状況で、何をその子にしてあげられるというのか。

食事か、トイレの世話か、心地良い寝床か、自由に動き回れる空間か?
それらを用意する前に、明日生きてくお金のために働き続けるしか無い現状。
安息な日々なんて夢のまた夢。そんな中でも、否応なく赤ん坊は泣き喚く。


そんなの、どうしようもないぞ。
安心して暮らせる環境を、実現できる知恵も方法も知らない。伝手もない。お金もない。

なぜだ!?



なぜ、自分はこんなにも何もないのか?!
こんな情けない親に、生まれてきて、子供は、なんと不憫なことか。。。
この子を育てる力がほしい、お金も住処も、食べ物も。もはや親元からせびる他無いのか。。。身寄りがなければどうすればいいのか。。。


いずれこの子も同じように、自身の無力さを呪うだろうか。
自分自身の非力さを嘆き、何も満足に与えてくれなかった親を、私を恨むだろうか。





親世代から代々続く呪い。

たぶん、こんな感じ。
日本の経済が死ぬに従って、こういう状況は増えてくると思う。
そ、私たちには何にも与えられていない。足りない、足りない。

私たちが赤ちゃんだったの頃の、泣き叫びたいほどの想いが、とうとう親世代に伝わらないまま しつけや人間社会の常識に押さえつけられて、ここまで育ってしまった結果が、これ。

結局、あの時、両親に訴えた嘆きは、ついぞ聴き入れられなかった。
根本は何も解決されないまま、改めて自分が親という立場に立つ時。
その因果を、自分の望みが何一つ叶っていない現状を、子供に引き継がねばならないということを身を持って体感することになる。


自分の非力さを呪わねば気が済まぬの、失望感、自己嫌悪。深い深い闇に突き落とされる感覚。
これと同じ気持ちを、子供に味合わせてしまいかねないわけだ。
だけど、ここで失意の因果を断ち切らなければならぬ。




自分が親になって、初めて親の大変さが身にしみてくる。

親も同様、子ども時代に何も与えられずに成長してきた。
そうして自分の親になって、何もない中で子供だった自分をここまで大きくしてくれた。
今、自分が子供を育てる側になって、初めて気がつく、有り難さも身にしみて沸き上がってくる。



どうあっても自分は、不十分な環境で育ってしまった。
もはや完璧でない、不完全な人間である。

だけど自分が不完全でも、この子なら。もっともっと望ましい生き方を見つけてくれるだろう。
そう確信して、まずは自分の愚かさを、未熟さを子供に分かってもらわなくちゃいけないだろうと思う。 自分は完璧な親ではない。しかし独立した一人の人間。一人の人間として、この子の成長を見守る決意をするとき、初めて親としての自覚が生まれてくると思う。


完璧でない親が、赤ん坊に教えられることなど殆どない。
子供の頭脳のほうが、より完全に近い存在、観るということに関しては神レベルだから。
生きることに関して学ぶ意志が、何より桁違いだ。

赤ちゃんは、親が手取り足取り相手をせずとも、自ら学んでいくだろう。



未熟な親としての自分ができる事は、あらん限りの周りの助けを借りること。
自分は何も出来ないというのを素直に認めるしか無い。認めたら楽だ。何もかも楽だ。
周りの友人や親、職場の人々、地域の方々や、周りの環境、自然の土地にお願いして、一緒に育ててもらうビジョンが見つかる。


皆で、一丸となって、新しい命を育てていく。
その子の願いを叶えるために、皆で力を合わせる環境づくり。
大人になった私たち一人ひとりができる事。


最後までお読みいただき、ありがとうございます(' '*)

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