本当の親って何だろうね?
本当の親って何だろうね?当然ながら私にも産みの親というモノはいるが。
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だがいつの頃からか、あの人を本当の親だとは思わなくなった。
生まれた時から、一人前の人間なのにね
あの人は、子供の言うことを理解しようとしなかった、お話を聞こうとすらしなかった。自分の正しさに囚われ、自分の物差しでは測れないからと、いつも子どもの行動を心配しては空回り。 何かあってはと子どもに言うこと聞かせようとし、教育、しつけと上から目線。
有り得ない。。。
子供の考えを全く理解しようとしないのに。
自分の常識を一方的に子に理解させようとか、押し付けようとか。
ムシのいい話だ。。。
なぜこの人らは、てんで見当外れなことを曰うのだろうか。
子供のことが見えてないのだろうか?
それ、子供の為を思ってのこと?
は?こうしないと社会で幸せに生きていけないから、子供の為を思って言い聞かせてる?
ははwww
それが、常識に囚われてるというのだよ。
自由が認められたら...何も苦労せずに済んだ
事実、私が家を出てからというもの、私は私なりの生き方を独自に築き上げてきた。
親とか全く関係ないところでさ。
本当なら、これらは3〜6歳くらいまでに出来てたはずなんだ。
最初から自由な環境だったらば、既に子供の時点でこの程度の学びは通過していた。
よく観察してたら分かるが、子どもは自立心が強いからな。条件さえ整えばみるみる成長していくぞ。
一方的な押し付けは、無い方がマシ
まぁ此処まで時間掛かった理由も今だからこそ分かる。自分の生き方を確立した後、親世代の生き様とか、全くもって無様に映ったから。
会社にしろ法律にしろ年金や税金にしろ教育体制にしろ。
何より、親にとっての社会の常識こそ、生きる上で邪魔なモノでしかなかったんだなって。
老害、塵に等しい、ゴミくず。
いやいや、塵すら残らん。無駄そのものさ。
そんなふうに、大人になった私たちに思われてお終いなんだ。
親とか、あの家とか、最初から存在しなかった。って思われてお終い。
本当の親は、ここに
強いて親と挙げるなら、自然の大地、故郷の土がそうだと素直に認められる。私たちは故郷の土の食べ物で育ってきた。自然の中だったら何しても許されるし、因果応報は身を持って痛感するし、思う存分に遊びながら自然の学びを、自らの在り方を吸収していける。
自然の大地が本当の親。いつだって本当の親なら、自由な自分の有り様を認めてくれるものだ。今を生きてるってそういうことだから。
私を生かしてくれてる、故郷の大地が、本当の親。
私が親と呼べる人
ああ、そう云うのなら。私の親と呼べる人は、居た。
マスターがそう。
マスターは過去、色々な国を訪れ、見聞きしてきた人。
日本の常識を外から見てるし、自分の生き方や考え方が全てでないことを、きっと肌で感じてきたのだと思う。 どんな人に対しても、否定はしないし、悩みや相談事、お話するのを真剣に聴いてくれる。
その上で、きちんとマスター自身の視点で、〜だと思うぞ、とアドバイスをくれる。
あの人(偽物の親)の言い方と違うのは、私の生き方や考え方をしっかり受け止めた上で、私のことを真剣に想って伝えてくれた言葉だということ。
当然、マスターの言葉は重みが違う。
マスターの言葉なら、私の有り様を理解した上での言葉なら、真剣に耳を傾けられるし、理解しようと思えるんだ。 事実、マスターの言葉は、自分のためになるモノだった、もっと話して欲しいと想った。その背景ににじみ出る彼の生き様を覚えておきたいと想った。
私にとってマスターは、想念的な父親。なのかなぁ。
お店の音楽を聞いたり雰囲気を味わいながら、マスターの世界観を堪能しながら...
マスターを傍でずっと観察しながら、その生き方や考え方に触れる内、私の今後に間違いなく影響していった。
こうして少しずつ、私にもマスターの面影が宿るんだと思う。
血の繋がりは直になくとも、あの日のマスターと同じ雰囲気が、何となく。
親から子に引き継がれる相続のカタチ
相続って、こんなふうに、その人の想念を受け継ぐことだと思う。子である自分が、こういう人で在りたい、もしくは学びたいと思う時、自然と受け継ぐ器ができる。 私は実際にマスターのお店を引き継ぐことはないが、同じようなお店をいつか開くかもしれない。 師の生き方が、そうやって次の世代に受け継がれていくものだと思う。
親でない人の遺産は相続できません...
ちな、私の書面上の母親は、私の生き方や考え方を殆ど理解しないから。結局、自分の独り善がりな財産しか築いていかないだろうと思う。
マンションとか、鑑定書付きの宝石とか、古い時代の陶器とか。
まぁ、別にいいんだが、私にとってそれらは粗大ゴミでしかない。
つまり、法律上どんなに相続の権利があっても、私には引取りようがない。廃棄するだけ。寧ろ負債。 あの人たちの生きた時代は大部分が闇に葬り去られる。人生の無駄死にだったというわけだ。
残念な結果だ。
多くの家電製品の成れの果てとか、腐った水道管、摩耗した電柱とか、放射線廃棄物とか、
ねぇ、子供たちに負債押し付けるの、そんなに楽しい?
こんなはずじゃなかった? 厭々...最初から子供の負担なんて気にしてなかったじゃん。
しきたりとかぶち壊しです
これと同じことは、家柄、お墓や仏壇の制度にも言えること。子どもたち遺族には、無駄にお金と時間と制約を強いられる、邪魔なものでしかないね?
葬式だの、法事だの、墓参りだの、仏壇だのお坊さんだの、金はかかるわ移動大変だわ。
どの親が、子らにそんな負担を強いることを望んだ?
少なくとも私の子供たちに、そんなもの受け継がせる訳にはいかない。
...世間一般の常識は、本当の先祖の弔い方を分かっていない。
皆、本当の意味を知らずして、形式に囚われてるだけ。
だから、私の世代で全部ぶち壊しになる。
私たちは自然に生きることで、死者の弔い方を正しく理解する。
その瞬間、先代の魂に、本当の安息が訪れる...
先祖たちの還る場所
まぁ、骨って自然に還せば十分なんだよね。それで肉体の器は巡るのだから...
⇒ 世界樹の成り立ち
面倒な決まり事なんて、自分たちの首を閉めてただけ。最初から必要無かったの。
事実上、先代たちの築いた家は崩壊しちゃってるんだし。もう守る意味が無い。
すべての結果は、親である自分たちの責任
親の立場から見たら、悲しい?子供がいうこと聞かないばかりか、自分たちの守ってきたものぶち壊しにするような行動。ねぇ、どう思う?
...これ、自分たちが招いた結果だと受け止めて欲しい。
たった一つ「子どものことを心から理解しようとしなかった」という過ちが、子に邪険な扱いをされることに繋がり、正しいことを何も伝えられない結果に終わり、今まで自分たちの築き上げてきたものがゴミにしかならん結果に、気づいた時はもう遅い、果ては家族崩壊の悲劇を生み出したんだ。
親の失態を子がフォローする義務ないからね。
それよりも自分、そして未来の子供たちのほうが大事だからね。
まぁ、既にそーなったら親じゃないから他人か。最初から関係ねーな。
核家族化の背景
たぶん、昭和後期になって核家族化が進んだのも、親と子の繋がりが疎遠になったのも、こういう事が原因だと思う。
いつからか、親子の繋がりなんて本当に無くなってたのだと思う。
戦後、家より個人の自由が認められたでしょう?
それで、これまでのツケが一気に爆発したんだ。
最初から、実家で本当に自由な居場所を与えられなかったから、出て行くしか無かった。 家だけでなく、村や集落のしきたりとか、決まり事とか、見えない何かが個の自由を縛っていた。 都会はいいね!☆ 誰も邪魔する人が居ない。周りの目も気にしなくてイイ。
過疎化とか、子供に見捨てられた哀れな集落たちの末路なんだ。
親の失敗と経験から次に繋げる
私の生みの親も、あの時代、幼少時代から相当苦しんだと思う。その上で、私をここまで育てたことには感謝している。
あの人には、最初から帰れる場所なんてなかった。子供の頃から本当の自由を与えられなかった。 色んな邪魔が入る中で、あの人自身が一から安息の場を築きあげねばならなかった。 ただ生きていくというだけで、これほど苦労を強いられるとは...
親となった時点で、借家はあるが、未だ骨を埋める場所がない。
こんな状態で、次世代の子に想いを託さねばならないのだ。。。
(ここまでは、たぶん私と同じ)
だが、あの人は子どものことを理解しようとしなかったばかりに、またもや親子の繋がりが切れてしまった。また一からやり直しだ。賽の河原ってこうして出来てたんだね。
まぁ状況が状況だ。ある意味、私は仮の親から学び、次に繋げていけるのだろう。
子どもたちなら、もっと素晴らしい生き方を自ら切り開いていける。
私たちは、未来の子どもたちの生き様を深く理解し、共に学んでいける。
これからの生き方は、子どもたちの感性のお陰で、もっと住み良いものになってくだろう。
先代のことを振り返る
私の母は、幼少の頃からありのままの自分を認めてもらえなかった。姉との比較に怯え、そして親の言いなりだった。 他に頼れる人が居なかった。そんな中で自分の居場所を無理やり切り拓くしか無かった。類まれな努力をした。好き嫌いなんて言ってられない。努力する他なかった。 相当に頑張ったほうだろう。しかし一つの過ちを侵したばかりに、本当の家族の繋がりを見失ってしまった。頑張りとは、報われぬものだ。どんなに頑張ってもあの人は孤独だ。もう私の声は届かない。私には救いようがない。私の祖父母は、最初から何も与えられなかった。結婚して新天地に連れられ、周りに味方が居ない中。そんな中で家族を守るのに必死だった。自分たちが生きていくのに精一杯だった。戦後というのもあるからな。ひどい有様だったろうな。
私の曽祖父の時代は、家長制度というものがあったそうな、自分が家族の代表として、常に威厳を保ってねばならぬ。自分の家ですら気を許せる場所がなかったろうな。
皆、赤ん坊の頃は確かにあったはずの居場所、いったい何処に行ってしまったんだろうね?
...
私は大丈夫、私にはマスターが居る。
私には、はるか遠い先祖の守ってきた、故郷の地がついている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます(' '*)(記事作成日:2015.09.03