愛に犠牲は付き物ですか?

以前こんな記事を書きました。

無償の愛は存在しない

 
今回は、これの続きを書くのです。
「愛に犠牲は憑き物なのよ」

誰の言葉かは忘れたけれど、きっとこの方はこうだったんだろうなって。
ちょっと感じました。

人を下に見てたんだなって。

 
私自身、そういうフシがあったのですよ。

してあげること。
お世話すること。
助けること。

これによって、優越感?みたいなのがあったような無かったような…
自己陶酔に似た感覚ですね…

 
特定の人を助けたい。
そればかり先行してたあの頃は、
たぶん自分を犠牲にすることを美徳だと思っていたのでしょう。

だから、してあげる
こちらから差し出すばかりで
相手から受け取ろうなんて思いもしなかった。
受け取れるものは無いって思ってた。

 
相手は何かを差し出してくれていただろう。
でも、受け取るなんて変なプライドが許さなくて、
見えないフリをしたのかな?

そこに貴重な学びがあるとも知らずに…

 
真っ逆さまね。
 
ということがあって、今こんなことを思う。

 
でもね、考えてみると。
これだけの考察を深められるようになったのは
まさに「助けたい」意思が引き寄せたことなのです。

だから必要な情報が集まった。

 
私、もと調理師で昔ながらの料理法とか結構やってたから
油ちょっとくらい良いじゃんみたいな感覚で料理してたんですよ。
そしたら、油に相当な拒絶反応示すじゃないですか。

ああ、フライパンに使う油って身体に良くないんだなって
その時けっこう考えて、違う料理法を見出す機会を貰ったんですよ。

結果これらの技術がですね。

ウォーターソテー
低温蒸し

 
私自身が、もし親身に接していなければ、一般大衆のような油使う料理で満足してた。それが今や、もっと健康的でさらに美味しくなれるレシピを体得できたのです。

 
乳酸菌もそうだ。
今試作中の酵素玄米も…

動機は、相手を気遣うものであれど
結局は、それが自分の糧として技術を体得できている。
今現在、そこからレシピを開発する楽しみにもなっている。

 

愛に犠牲はつきものなのか?

 
差し出せば、違う形で何かが返ってきていると思えます。
付き合いは対等で、どんな形でも目の前に学ぶべきメッセージは常にある。

  
犠牲だと言うのは、

自分の意志で助けてないか、無理しすぎてるか。見落としてるか。
或いは人を下に見てるか、其処から何かを受け取ろうと考えてないか。

どれも勿体無いばかりだと思ったのでした。

 

。。。私は当時、無理しすぎました。
後は、前回の記事に書いたとおり。

正直、コレ以上は嫌気が差してました…
人と関わりたくない。まで行った。
他人への憎しみ、呪いはそこから生まれた。

自己犠牲を錯覚させる言葉は、愛じゃないのです。

 
はい、解散(。◕ ∀ ◕。)ノ

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