人間関係での子育ての気づき

今まで、自然相手のスタンスでずっと視ていました。
食べ物がなる土地、その環境が一区画あれば、イメージが出来る。
人は、食べ物によって活かされている。土地によって活かされている。って。

 
自然の中では因果応報だけが有り、それは親を介してでなく、自然から身をもって学べること。そして親は自分の庭園の中、子どもに全くの危険がないよう整えられた場を与えることができる。その場において、子どもの自主性に任せられる。

 
生まれた子どもの学び場は、与えられた土地・環境であり、そこで生きるために必要なことを肌で感じ、学び取っていく。自然が相手であれば…直に「食べ物」の恩恵を感じることが出来ただろうな…自然から、土から成るんだ。それをただ観察して、意味を感じ取り、収穫の時期に口に入れればいい。食材の調理や保存の知恵は、まずは先代のやり方を視て体感すればいい。

成長する内に行動範囲も広がり、違うやり方も学んで世界を広げていくだろう…

 
特に何も教わらなくとも、庭園の中で遊びまわるだけで、自分の行動範囲を広げていく中で、自然に学び取っていく(o _ o。)
これが、今の私にあるスタンス。どこかの本で見た内容にも書かれてあったけれど、自分の経験と照らしあわせ、そのように育ってきた自分には納得の行くスタンスだった。
 
生命線は自然。
だから生きるには、自然体でいるだけでいい。
とっても楽。食べる以外は好きなように仕事して、楽しんで生きていける。
すごい子育ても楽になるんだろうけどな…

自分は、そういう視点で今まで生きてきた。

 

だけど、今の時代の生活環境には、そういった学びの場は中々感じられないものだねって、周りを視て気づいた。
自然環境とかけ離れた家庭で、あらゆる人間関係の中で育てられるケースがあるんだって気づいた。
しばらく交流を重ねる内に、そこでは生命線が家族であり、その家で収入を得てる人(お勤め先についても)だった。
だから、人間関係...自分が家族に活かされてることを肌で感じ「家族」を優先するように動くんだなって。
 

その中で育てられた人の、人間関係を円滑にすすめる技術は素晴らしいものだ。
ただしその技術を遂行するためには、かなりの気遣いを必要とするみたい…他人の意向を理解しようと試みたり、他人の想いが自分に入り込んできたりして、本来の自分の意思決定に集中できなくなる、いろいろな人の意向を汲みとる内に迷って迷わされて芯を失くしかねい…初めてそういう場にお邪魔させていただいて、肌で感じて体感しました。混乱混乱。。・
何処で一線を引くか、明確な判断が難しい。ハードルすごい高かった。。。その代わりに、一般社会のうまく渡り歩いていくスキルは、まぁ得られる。で、稼ぐ仕事に集中できんのです…

ふむ(‘ ‘*)…

 
 
これは相違の話し合いをもってして。
お互いの役割と、見解の違いを明確にすべきだったんだな。
 

子育てについても、学びのステージや与えられる環境で、何が最善なのか…の視点が違ったんだ。
そうだ。逆に都会の子育てでは、根本の部分が、ベースの生命線が、すっぽ抜けるではないか!!

生命線が自然にあるという視点がない。
自分の意志の重要性が薄い。
 
 
一人任された時に、正常な判断ができなくなるわけだ…
きちんと、その子を視ていてあげないといけないわけだ。
一つひとつ、なぜそうなるのか紐解いていかなくてはならないのだ。

 

子どもは、全能である。
このスタンスは、庭園の中でこそ成り立つものかと。

そうじゃないかぎり、もしくは外の場に出向く時などは
最初にきちんと視て、教え、護ってあげなければならぬのかと。

 
 
ここを見落としてたことが今回の失敗。何もかも任せすぎた。
もし都会の中で育てる…見守るときは、子どもは何かやらかすという前置きをもって、きちんと視てあげなければならない。

 
いつか、庭園に還れるその日まで。

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