土地と契約を交わす。
すると、土地と自分とが一心同体になる感覚を覚える。
都会の中にあるあの土地は、荒れ放題だ。今、できることは限られる。
正直、苦しい。どうにもできん現状、自分自身の不甲斐なさに腹立たしい。。
今すぐにでも大金を用意して買い戻したいくらいだ。
契約を交わしたら…
土地の苦しみは、自分自身の苦しみに感じるようになる。
逆に、自分の苦しみが、土地すべてに伝わるようになる。
だから、お互いがお互いを助けようとする。
もう一つの自分自身(土地)を解放するために。全力を尽くすようになる
私とこの土地は一心同体。感覚を共有するようになる。
コンクリートの地盤と塀をどうにかして外さないと。
もっともっと生命が生い茂って、存分に生を満喫していけるように。
伸び放題、成長し放題、そこから余剰分が土に還り、土地の記録は養分を得て、新たな生命の礎になる。
生命の循環を、繋ぎ直す。
そして生命の循環に永遠性を見出す時、
私は私自身に永遠を感じるようになる。
作物が生い茂り、花が咲き乱れ、木の実が落ちてきて
落ち葉や枯れ草、種子が再び大地に眠る。
私は、夜の暗がりでそれらに触れ、共に温かな死の眠りを味わう。
一日の目覚めは新しい生命の始まりを喚起する。
朝の日差し、希望に満ちた夜明け、次は何が生まれてくるのか?
希望と期待に満ちた眼差し。
それは、死の眠りの中で、予め描かれた夢にも等しい。
土地とともに、新たな生命の誕生を迎える夢(あめ)
雨。雨が降ってくる。
雨は生命の記憶を循環させるもの。
雨が混ざり合うことで、土地のみんなの夢が混ざり合い、一つになる。
太陽と水、永遠の循環。新たな生命の生まれ出る予兆。
土地が呼んでる。
望みのものは目の前に在る。
今の世の中、その形が違って視えるだけ。
「都会」という枠組みの中でも
望みのもの__土地。はあるんだ。
それが表面上は、道路であったりアスファルト…と形が変わって存在してるだけ。
土地のもつ本質「様々な生命を宿したい」は、ずっとずっと根底に在って、変わらない。
エネルギー(物質の元素)の目線で見れば分かる。
原子配列や分子構造が変わろうとも、世界全体の質量は変わらない。
土地が「様々な生命を宿したい」と、空気中のエネルギー(物質の元素)を組み換え、まず雑草を生やそうとする。
その生命力が、都会の枠組み「動くな、平坦な道で居ろ!」の干渉を受けて、死体で固めあげられてるだけ。
でも、都会で生きてる者達だって土地の「食べ物」がないと生きていけないわけだから
抑えこんで奪った生命力のエネルギーを、別の形に変換して、販売してるんだ。
園芸用の土。プランター。
あれは、もともと土地にあった生命力が、別の形になったものだ。
そして、中身が無い。栄養がない、微生物や虫も見えない、歴史がない、すっからかんの状態になってる。
…つまりそのままで育てるのは難しくて。
土地の持ってた生命力の本質は、これまた何処からか奪ってきた「肥料」だったり「腐葉土」だったりと形を変えて販売されてる。
…望みのものは、確かに形を変えて目の前に存在している。
しかし、しかし、「分かりづらい」ではないか…
なぜそのままの形でないのか?
それが都会の仕組みだからだ。科学という考え方で動いてるからだ。
科学は、1つのものを細分化して定義づけることで、細かい部分まで突き詰めていく学問。
でも実態は、細分化すればするほどさらに小さな枠組みに囚われるようになり、生命⇒分子⇒原子⇒中性子・電子⇒…どんなに細分化しても定義の終りが見えない。…細分化すればするほど、物事の本質(元々の生命の有り様)を見失いやすくなる欠点を秘める。
それとおんなじ。
今の都会は科学で創られているから、物質のエネルギー(元素)が細分化され、本質を分かりづらくする地場が組まれてるんだ。
人は、望む。
元々の自然では、望んだものはシンプルに手に入るよう出来ていた。
けれども都会では、望んだものが分かりやすい形で現れてこない。
食べ物が欲しい時、
自然では、食べ物のなる樹を探すか、食べられるハーブを探せばいい。自然の理を知れば、たやすく見つけられる。
しかし都会では、食べ物を欲しても、そのままの形で得られないのだ。。。「お金」を稼がなければ…
都会において、全ての物質エネルギーは細分化されてると言っていい。
で、細分化したエネルギーは、殆どが「お金」を通して交換できるようになっている。
望みのものを都会で得るには、まぁ一般的には
・お金を稼ぐ手段と、
・細分化されたエネルギーを見極める手段。
・それらを正しく組み上げる正解の手順。
3つ。
こんなにも段階を踏まねばならないのだ。
もともとシンプルに叶えられた願いが
まるで気まぐれなゲームに付き合わされてる気分だ。。。
こんなに難しい世の中だから、人はよく努力の方向性を間違えて、願いが叶わなくて、悲観にくれたりした。
でも、望みが叶えられないからとふてくされる必要はない。滅入る必要はない。
よく視るんだ。望みのものは、形を変えて目の前に在る。それを知るだけでいい。
都会の枠組みは、所詮「自然」の土台が在ってこそ。薄っぺらい壁で区切られた幻のようなもの。
「見せかけ・思い込み」という壁を取り払った所に、より分かりやすい真実の形が視える。
目の前のものが、元々何で在ったかを思い出すのだ。何を願って存在したかを思い出すんだ。
それを知るだけでいい。望みのものを見つけられるはずだ。
動物たちと一緒に棲む!ってなったとき
どんなふうになるかなって想像してみたんです。
寒い寒い夜に、ワラブキの小屋の中でわらに包まれてすやすや。
もうすぐ冬だ。うー、ぶるるるる。。稲刈り終わって、新米が出回るべ。
しばらくしてると猫さんが遊びに来ました(。◕ ∀ ◕。)ノ
木の実とか、干し柿とか、干し芋とか、魚の燻製とか、保存食ように用意してる。
食べ物につられてきたのかい(‘ ‘*)?
にゃーにゃーにゃー(‘ ‘*)
もふもふもふもふもふ、hあったかあったか(o _ o。)
服着てないよ、自分ほぼ裸んぼ。
だからワラの香りや外の草や木、動物たちの匂いが肌に触れる。
何も着てないから、どれだけ違う匂いがついてもいいんだ。
逆にそれが、心地よかったりもするんだ。
他の存在と直に触れ合ってる感覚、繋がり。ぬくぬく。
猫の他にも、フクロウや狼、ヤギとか。イノシシさんもいる。
ワラブキの小屋の他に、人間用にきちんとした6畳間の住居も構えておくよ。
その中で、お客さんとお茶したり、人間に戻りたいときの気まぐれ別荘だったり。
最初は、お風呂場で身体を洗い流さないといけないね。
人間用の住居に帰るときは、外の世界と境界線を敷いてるんだ。
外の土の香りを洗い流し、植物や木々の香りを洗い流し、虫たちの気配や、動物たちの匂いも洗い流す。
そうして自然とはかけ離れた、人間独自の世界を守っている。
空虚で、孤独で、ひどく異質な。渇望感に似た響き。
人間に戻るとき、この状況がやけに窮屈で仕方ないとも思うが
これはこれで、たまに違う世界に浸る分には調度よいかもしれない。
さて。
自然と直に触れ合う感覚を取り戻すとき、最初に場の洗礼を受けることを覚悟している。
まず土地と繋がりを得るためのコミュニケーションを計らないとだろうな(‘ ‘*)
土地はよそ者に対して、まずふるるるるるるるる。
動物さんも、がるるるるるるるるるる
人間さん、こわいよーこわいよーこわいよー。
そして人間側も、
自然との接し方を一時的に忘れてしまってるから。
うーーー、時代の移り変わりって。
過去の負の遺産ばりばりね。
負の遺産受け入れてこその次ね。
ニュースを見てたら、このような声が聞こえてきた。
グローバル社会といって海外に関心を向けさせるのは
自国に問題を抱えてる証拠だ。
自国の問題から大衆の目を逸らすために、
海外へ関心を向けさせる話題作りをするのだ。
ゆめゆめ注意するように…と仰った(‘ ‘*)
それは誰ぞ? 記憶の中にいる誰かの声でした。
これ。
つまり、メディアでなく個人単位でも言えること。
自分に問題を抱えてるとき、その問題から逃げてる間は「(他人)に問題を作って批判」するようになるんだ。
と。少し繋がりが見えてきました。
もしも自分に問題を抱えてなければどうだろう。
もとから自分に関係ないことには興味ないし、
話題に取り上げるほどじゃない。
れより、興味のあることのみに話題が集中して、
うりゃ〜ってのめり込むのが人生ですかの(‘ ‘*)?
うりゃー(‘ ‘*)
ということで、自分に関連することのみに関心を向ける。
また、そのように生きていける環境づくりをするの。
興味ない話題、無関係のものとはおさらばなのじゃ(。◕ ∀ ◕。)ノ
以前、こんな記事を書きました。
⇒ 自分という存在を拡張した捉え方
自分の肉体から始まり、身体を維持する様々な環境も体の一部とする捉え方。
こう考えると、今の自分の肉体というのは種子みたいなものだなと思ったのです。
人は、自分で生きる環境を作ることが出来る。
自分の土地があって、そこで様々な木を植えたり、花を育てたり、作物を実らせたりして。
自分の生きる環境を、自分自身の手で形作ることが出来る。
理想の生き方は人それぞれだから、生活する環境の作り方は十人十色。
この生活環境こそが自分の身体の拡張だととらえた時、自分という存在は種子みたいなものだなと思ったわけです。
自分の中に、理想のカタチが渦巻いている。
その願いはいつか花開くことを夢見ながら、微細なる意志として静かに内包されている。
まるで種みたい。そして確かな未来のイメージを思い描いている。可能性の塊。
植物の種には未来がある。
願いを叶え、また次世代の種子を作り、次に繋げる。
人の未来もそうかもしれない。
願うこと、夢見ることが未来を形作り、
素晴らしいイメージの世界を構築する1歩になる。
冬至の時、新たな1年の形を夢見る時、ふとそんなことを思いました。
「人間は、種子みたいなものか」
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- みた夢の記録
- 2014年12月26日