視るって、並大抵じゃないね
ありのままを視ようとする時
自分の存在がその人になってしまう。
彼女の苦しみが、自分自身の苦しみとして押し寄せてくる。
人を視るって、並大抵じゃないね。
ありのままを視ようとする時、相手の存在に自分が引っ張られることを痛感した。
アナスタシアさんは「純粋さ」が必要だと言ってた。意図の純粋性って。
逆に、純粋さがないと見えない。ということを描いてた気がする。
その意味、何となくね。
それは、自分自身を護るためなんじゃないかな?って思った。
純粋さを持ってでしかありのままが見れないのは、そうでないと相手の存在に飲み込まれてしまうからだ。
相手のありのままを目の当たりにした時、今まで自分がしてきたことが如何なるモノであったか、嫌でも分からされるんだ。
ちょうど、アナスタシア第3巻で、強制的にトランス状態にされた人たちが居たね。
純粋さが欠けた状態で存在の海に放り出された場合の、末路…なんだろうな。
本当は、誰にでも視ることができるんだ。
だけども、純粋さが欠けた状態で目にしてしまうと、自分自身が打ち砕かれてしまうくらいの強烈な想いの中に…
自身のこれまでの罪が露わになり…
意識的に、目をそむけるしか無くなってるんだろうね。
結局、それはいつか精算しなければならないというのに…
そんな中で、人は生きている。
そんな絶望の苦しみの中に、今の私たちは居る。
アナスタシアさんは、誰よりもこの世界の苦しみを嘆き悲しんでいるように感じる。
視えるってそういうことだから。自分自身が救われるために、彼女は彼に託した。
いや、アナスタシアさんは彼を愛した。
世界中で誰よりも大切な彼を救うために…彼を何としてでも救いたいがために、
あんな突拍子もない夢物語を描いたんじゃないか。
今、何となくそのように感じている。
ずっと見つづけてると、自他の区別がなくなってくるんだ。
皆の記憶が、自分のものになるんだ。
同時に、自分の存在が、皆の想いに引っ張られるようになる。
その中でもとりわけ、彼の存在は大きかったに違いない。
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