縄文人はなぜ遺物を残さなかったか

縄文の人がこの世を去る時、遺物も一緒に自然に還していた。遺跡の土器もだいたい粉々。
その理由、これまたエネルギー(物質の元素)の視点で見ると分かると思う。

自分の都合で築いた構築物は、子どもたちにとって不要だから。
作品でも、コレクションでも、便利な道具でも、それが自然から切り取って作られたものなら尚更。
どんなに自分には価値のあるものであっても、子どもたちには多くが不要なものに映る。

情報の詰まった叡智、永遠に必要とされる真理を宿したモノ…も中にはある。
しかしそれ以外の芸術品や想い出の品などが先代の遺物として残っては、全体のノイズにしか成らないのだ。
世界全体のエネルギー(物質元素)の質量は変わらないなら
異物が残っている分だけ、自然界からロスが出ている状態。子どもたちの世界が狭まってしまうわけ。

だから先人たちは、この世を去る際に自らの遺物をも自然に還すことの大事さを知っていた。銅像や墓標なんて無かった。
全てが役目を終えたとき自然界に帰すから、自然界は永遠性を保ちながら、その時、その時に合った形を自由に保っていられたんだ。

はるか土の下。記憶の層の中に、活きた記録は永遠に残り続ける。
形として残さずとも、それで十分だったんだ。

 

そのことを忘れ去った私たち、その頃の先人たちの感性を、再び学ぶ必要があるんじゃないか?って想う。
実際、遺物だらけになってしまった世界において、子どもたちは多くのモノや親世代のしがらみに囚われて、思うように動けなくなっていた。

棲む家は自分で築くもの
資本主義の落とし穴
 
 

遺物を自然に帰すことの大切さ。
根拠があるとすれば、こういった例から汲み取れるんじゃないかな。

 
 
 

本当に子どもたちを想って生きるならば
自分の手元にあるもの、できるかぎり自然に還すことができるもので生活すること。
どうしても自然に返すことが出来ない工業製品…
自分たちの手に負えないモノに関しては、極力身の周りに置かないこと。

少しの心がけで、私たち家族は、未来永劫もっと暮らしやすくなるように想う。


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空虚な想い…

あれからふと、空虚な想いを感じた。

 
何にもない。
ただ生きるだけ。
何にもない。

そんな感情が流れ込んできた。

 
私はこのブログで、ずっと一つの願いを成し遂げようと奮闘してきた。

「みんな誰もが、安心して、自由に生きられる世界を創りたい」
 

「みんな誰もが」…その最小単位は自分であり、最愛の人との暮らしでも在る。

 
食べ物が自然に実る草地。
雨風凌げる藁葺きの屋根。
何も働かないで、最低限の暮らしが約束される生活スタイル。

ずっとそれを願って、あの日。
とうとう答えの一つを見つけていた 。

私は働かない。
働かないで、生きていける。
周りの木たちが助けてくれるから。
 
草地と、木が、水が、私の一部なんだ。

 

そして、自分にとって、それを実現できる手立てが、より明確になった。
その準備は、ある程度自前で用意できるモノだった。簡単な準備だった。

草地は、後から手に入る。
今は、現実の動きを見ながら、準備を整え、思考を研ぎ澄ませておけばイイ。

。。。

 

ようは、実現がよりハッキリ見えてきたということ。
そう思ったら、何だか、酷く空虚な自分自身が居たことに気づいた。

何にもしないで生きていける世界が実現したら
私は、そこで何をすればイイのだろう?って。

 
 
何にもしないで生きていける…
それ、何か生きてる意味が在るの?って
そういう思考回路を目の当たりにした。

 

。。。

何にもしないで生きていける。
これは、ゴールじゃないんだ。
寧ろ、本当の人生を生きるスタート地点なんだ。

自分たちの築いた領域の中において
自分の思いのままに生きることが出来る。

そこで何をする? 何をしたい? 何をしたら楽しい?
どうすれば、自分の生きた証を、後の時代に残せる?
どうすれば最愛の人の役に立てる???
あるいは、子どもたちの糧になれる???

 
「責務はない、何もする必要はない。好きなようにしてイイんだ」

 
この言葉を、どう受け止める?
私は、何の役にもたてないの? ただ生きてるだけなの?

って、思ってしまうのかな?

 

もし。

 
そうだ。

今までの教育体制や、労働体制、雇われの観念。働かねばならない。
ずっとそういう観念ばかりに囚われて生きていると、
いざ、自由の身になった時に、自分の本当にやりたかったこと。いつしか忘れ去ってしまってて…
退職後の、ご老人の方たちが、すでにそんな経験を成されているよね。
 
 
「好きなように…って。何をしたらイイかわからないよ…!!!」

 
こんなふうに、空虚な気持ちになってしまうものなのか。
自分がない。本当の自分を忘れ去ってしまっていると、また以前のような「働かねばならない」縛られた生き方をして、そんな責務の中で、自分は頑張って働いて、自分は世の中の為になってる、家族のためになってると錯覚して。(私たちの立場から見たら、それは無駄な仕事しか生み出してない)

そうして、周りの自由を振り回す生き方。

 
こうなるのは、自分の本当にやりたかったこと。自分の意志を、生きる意味を見失ってるからだ。だから、責務に縛られた生き方を望んで、生きたつもりになってるだけ。ただの自己満足に過ぎない。(その代償に、自分を含めた周りの自由を、時間と労力を奪う、というとんでもない有様)

 
親の心配で、子どもが迷惑被るのと同じ。親の余計な気苦労で、子どもが、自由を奪われていたのと同じ。

親は、何があっても受け止められるという度量で、のんびり構えておけばイイ。殆ど何もしなくてイイ。信頼しておけばいいだけだ。簡単なことだ。
最初から何も心配いらない。子どもは生まれながらにして一人前。その中で、自分の意志で善悪を判断し、子どもにとっての本当の人生を、幸せな時を歩むのだから。

 

心配するだけ無駄。
〜しなければならない。そんなこと言うだけ無駄。

こうあらねばならぬ。ではない。
間違ってはならぬ…ではない。

もうそんな地獄のような責務は消えている。
親だって、童心に還っていいんだ。。

かつて子供の頃の、あの頃のように。

 
こうしたら、もっと楽しくなるだろうか!
こうしたら、大好きな人に喜んでもらえるだろうか!

そういった、喜びを生み出す気持ちで、前を向くんだ。

 
「あなたは、この自由な世界で、何をやっても良いんだよ、」

 
どうしたい?
どうしたら、あなた自身の想いを叶えられる?

 
安心して暮らせる「普通」の暮らしは、
実は、最初から存在しないものだったよ…

もう、目の前にあるよ。
安心して暮らせる「私たちの」暮らしが・・・

 
「安心して暮らせる」を境界線として
あなたは、その中でどのように生きていたいだろう?

 

私は、ずっとこの暮らしを構築するために
ギリギリの状態から、働いて、お金貯めて、何とか余裕できて、
「安心して暮らしたい」その為に何が必要なのか。
まず食という視点から研究して、様々な情報を分析して、こんなサイトまで創って
やっと、最低限のボーダーラインが見えてきたトコなんだ。

ずっと、責務に追われてきた。

 
だから、いざ願いの片鱗が叶うというときに
空虚な気持ち、感じたよ…

でもこれは、それ以前の「本当の自分のやりたかったこと」を、ずっとおざなりにしてたせいだったんだ。
私は、思い返してみた。私自身は、本当は、何をしたかったのかを。
そうしたら、あの日の、楽しかった頃の記憶が、思い返された。

むかしのこと

 
私は、最初からこのように生きていたかった。
音楽を創ったり、物語を描いたり、それを読んでもらったり、同じ志を持つ人と語り合ったりして
自分の創造の世界を、次々に広げていって….

もし、生きることが最初から保証されてたなら
今頃、もっともっと色々な作品を生み出せてたと思う。
色んな仲間たちと、今でも楽しく語らいながら暮らせてたと思う。

今、やっと自分の人生を生きるスタート視点に立てたんだよ。

 

本当の、自分自身を見つめなおして。
あの日の、楽しかった頃の記憶を、もう一度再現してみて。
私に、教えて。その頃の想い出を。

そして、もう一度、再現してみて。
あの頃と同じ気持ちで、やりたかった本当の人生を、ここから紡ぎだして。


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彼女の苦しみ、子どもたちの苦しみ

彼女からこんなことを云われました。

 
「身なりをきちんとして欲しい」

 
ボサボサの髪
ねぐせ
ひげ
たまに鼻毛
また同じ服

 
(‘ ‘*);;

 
曰く、外見に無頓着すぎだったようだ。 
確かに行き過ぎな部分はあったかも。

 
「ピシッとすれば、あきさんだって少しは見れるのに!」

 
気が気でない様子、どうも余計な心配をかけておったのだ(‘ ‘*);;;
申し訳ない!

 

ちな、うちは全く外見に気を使ってないわけではなく。
むしろ、ある面ではかなり気を使っている。

ボサボサの髪はトレードマークだし
寝ぐせはその日の芸術品(。0 _ 0。)ノ

ひげは勝手に伸びるダンディな象徴で///
鼻毛は外の空気が汚れていることを素直に教えてくれる

服は、黒一色あればいい(。0 _ 0。)ノ

 
そんな感じだ。

 

こういう自然(?)な状態から
如何に地力、素の美しさを磨いていくかに余念がないのじゃ(。0 _ 0。)ノ

(笑)

 

 

話変わるけど、うちは彼女に「すっぴん」が断然イイと言っている。
実際、あの子はそのままで実に綺麗な顔立ちなんだ。
安易に化粧しないほうが、素の魅力がそのまま見れて美しい。

で、素をそのまま見れるからこそ、その子の内面もクリアに見れるようになって
何をすれば肌(心)が喜ぶのか、何が足りないか、或いは過剰なのか、
はっきりと見て取れるようになる。

その子の状態に合わせて、ちょうどいい塩梅で料理が作れたり、お茶を入れたりできるわけ。あるがままをさらけ出してくれたら、それにピッタリな暮らし方を提供できるんだ。

 
うちの出来る範囲ですらこうなのだから、
素直になれば、もっと関わり深い方たち、動物さんたち、自然さんたちから得られる恩恵は、もっともっと素晴らしい物になる。自分に見合った恩恵を、たくさん受け取れるようになる。

だからある意味、ありのままの方が素晴らしいんだ。

 

再び、自分の事に話を戻すと
確かにひげが残ってたり、鼻毛が伸びすぎたりするのはだらしがないと思う(‘ ‘*)
でも、自然体で無頓着な自分にとって、伸びるのは自分がケアしないせいではない!

ムダ毛が伸びるのは、まわりの空気が汚いせい、生活を脅かすものに溢れてるせいなんだ。
だからこのままではいけない!!!と、自分に意志が働く。

樹を植えるんだ。
水を綺麗にするんだ。
広い庭園を持ち、かつての楽園の記憶を再現するんだ。

 
そうすれば、汚れた空気から鼻毛を伸ばして身を守る必要がなくなる。
ヒゲを生やした攻撃的な外観にする必要もなくなる。

清浄な霧の中では鼻毛が伸びないし
水がそのままレーダーになるので、ムダ毛を生やす必要も殆どない。
そして、水の中では肌がいつまでもみずみずしい!

 
これがかつての楽園がもたらしてた、人間本来の美だ。

 

自分が、パッと見だらしがないのは、その姿を夢見ているから。
ありのままを見せることで、望みに対する明確な答えを「自然」にお願いしてるんだ。
周りからどんなに下に見られてもバカにされてもいいから、恩恵・効能・アドバイスをしっかり頂く。
周りの目も気にせず、自分を貫いている。

広い庭園、樹と水を育む場所、助けて欲しい。

 
ずっと、そんな願いを持ち続けながら。

「今日の寝癖はダンディだぜ(。◕ ∀ ◕。)ノ」

 
的なことを思い浮かべて、外出している(‘ ‘*)
(それでも最近は、確かに行き過ぎであると諭され、とりあえず外見の末端にも気を使うようになった)

 
 

たぶん、彼女にこんな話をしたら…(笑)
 

 

 
 
 
 

 

「まぁ、素直が一番だよね?」ってことで納得してくださ.。.:*・゜

 

で、冒頭に戻ります。

 
先日彼女からこんなこと言われました。
とても核心に迫る話をしてくれました。

 
「お願いだから、身・だ・し・な・み!」

「私が、あきさんにこんなこと云うのは、周りの目があるからだよ!? あきさんお仕事してるでしょ? 第一印象が大事なんだよ。取引先を決める時、同じような能力と見積もりだった場合、最終的に人はどこで判断すると思う? 外見なんだよ! 身なりがキチンとしてるかどうか、それが細かい部分にも現われるでしょ。あきさんは大丈夫だって言ってるけれど、お仕事して私たちを養っていかなくちゃいけないんだよ。そんな格好だったら、お仕事大丈夫なの?!って、私たち親族にも納得してもらえない。余計な溝が出来ちゃうかもしれない。それに今は親しい人たちが周りにいるからイイけれど、もし知らない土地に引っ越した時、あきさんがそんな格好だったら…第一印象が悪くなったら、世間の目が、それが奥さんになる私にも、私たち家族全体にも関わってくる問題なんだよ…お願いだからちゃんとして!」
 

 

。。。

 
この時、ハッとしたんだ。
彼女の感覚、彼女が今まで生きてきた世界の苦しみが、以前より明確に感じられるようになった。なぜって、それを言われた時、頭で理解しながらも、何か矯正されてるような、微かな苦痛を感じたから。

他人の目なんて気にしなければいいのに〜。って思ってたのが。
逆の立場ではこういう感覚だったんだ!

 
 
彼女はいわゆる、普通の子。世間一般の常識的な子。
その中で、正しくあろうと頑張り続けた子。頑張って普通に生きようとして。
でも頑張りすぎて、本当の自分が分からなくなって、何となく居場所を無くしかけてた。

助けたいと思った。

 
 

彼女の常識では、そういう生き方しか知り得なかったのも頷ける。
この時代、生活のために、会社で働いてなんぼ!というのを信じて疑わないのは、大多数がそう。いい大学を出て、いい就職のために、資格の勉強をして肩書を揃えて、常識?も学んで、身なりをきちんとするのが当たり前って。そこでしか判断されないから、そこをきっちりするしか無い!と。

彼女は「化粧をするのは鎧」って言ってました。化粧をすることが「社会人」で在るための責務だと思ってるような(どうだろう?)余裕が無い中、化粧品代に余計なお金を使わねばならないし、少なからず肌に負担も掛かる。毎朝の出勤準備に膨大な時間を割かねばならなくなる。本音の顔を化粧ごと覆い、いつも笑顔を矯正されて、心を追い込まねばやっていけないような不条理。

会社勤めの世界では、こういうの当たり前の常識?

(生きてくために必要だと思い込まされてる?)

 

だけど実は、常識というのは狭い考えだというのを、自分で仕事してみると痛感する。
インターネットで情報がフリーになった今、常識にも色々あることを顕著に見て取れる。(住む環境を変えれば、自分の常識なんて、取るに足らないことだと気づく)

常識にも色々ある。
自分の場合、コレまで周りの目を気にせず生きてきたし、格好はロクでもないが、周りから嫌われることなど無く、むしろ、皆さん親切に良くしてくれる。仕事も廻してもらえる。。
無理は必要ない、矯正されて苦痛を感じるくらいなら、自分はありのままのスタイルでイイのだ。これからも、彼女に信頼されながらテキトーに生きてくつもりだ。

素直に本性さらけ出したほうが、周りに理解される。
そして、こんな自分にはフランクで楽な仕事が舞い込んでくる。

俺には、それくらいがちょうどいい。

 

雇われの人は錯覚するかもしれないが、最終判断する社長の感性は違うんだ。
社長は、世間の常識では「人」を判断しない。独自の感性で「人」を視ている。
素直であること。或いはその人の能力(資格の有無じゃない)や性格を見て、自分の会社に欲しいかどうか。

ただそれだけの、すごく簡単なこと。

 
自分ですら、こんなでも仕事の話は舞い込んでくるし
うちの会社で働かないか?と、稀にスカウトも受ける。

こんなテキトーな人となりで。。。

 

だから、世間一般の言うことは案外あてにならない。
世間の不条理な部分って、ただの思いこみ。
 
 

 

あの子の今までが、実にそういった固定観念に囚われた環境にあったから、一家の大黒柱が一生健命に働いているから、自分も将来あんなふうに真面目に働いて、家族を安心させるんだ!って。周りに気を使い、両親や親族たちに心配かけないように!って、正しく在るように!って。自分を偽り続けるしか無かったんだろうって思う。いつの間にか、それが当たり前になってたみたいだったし。

本当の自分は、違うのに… 今更、その壁をぶち破ることが怖いのかもしれない。怖くて、心配かけるのが怖くて、今まで嘘をつき続けてきた何十年もの代償が大きすぎて、

 
「私は良いんだけどね、せめて親族の前だけは…」って
「口うるさくて、ごめんね…」

 
とも(o _ o。)

 

これが、あの子の苦しみなんだって。何となく感じました。
彼女があの場所で暮らしてるうちは、何も云えない。
それが彼女の選んだ生き方、一つの事実。
今は黙って従うことが、うちの努めなんだろうとも、判断しました。

 

 

 
もういいんだよ。
そんな思い込みは、この世から抹消してあげる。

俺なら全部受け止めてあげられるから
ありのままで良いんだよって・・・やりたいようにやっていいんだよって。

何もしなくても生きていける。好きなように生きていける。
それが、この世の本来の在り方だから。
一緒に、そんな世界を築いていこうねって。

 
 

子どもたちに対しても同じ気持ちで。
生まれた瞬間から、あるがままに感じるままに。自分の想いに素直に生きてほしい。
何があっても、全部受け入れてあげるから。

 
「あなたの居場所を用意して待ってるね」

そんなふうに、子どもたちに伝えたいものです(‘ ‘*)


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故郷の土、周りの大人

最初、田舎に移り住もうかと想ってた。
自分のやりたいことが、故郷の土ではかなり無理があるから。

。。。

広大な土地、樹林、霧、その中でひっそりと暮らす生活。

 
この中でこそ、私のやりたいことが叶う。
大地という地盤があり、樹林が大地を覆う時。
食べ物は自然になって、活きた水は自然に還ってきて。
初めて「何もしなくても生きられる環境」を実現できる。

ようやっと趣味の曲作りや物語の執筆だけに心を入れることが出来る。
大地の記憶を食べ物を通して授かり、過去の記憶をそのまま読み取れるようになる。

この中でこそ、生きた創造性の祈りをイメージに見出だせる…

 

今すぐそれを叶えるには、自由を制限しまくる「故郷」を捨て去らなければならなかった。
親を捨て、これまでの知人友人を捨て、一人こもる。誰も居ないところに。
その中で、ひっそりと樹と語り合いながら、生きる。

独自の視点で。もっともっと、ぶっとんだ思考で。
自分一人だけの楽園を築くことが出来る。

多くの人が、故郷を捨てたいでしょう?

都会に棲んでた人は田舎に憧れ
田舎に棲んでた人は都会に憧れる。
家を飛び出したいと思う。誰も知らない所に行きたいと願う。

その本当の原因は、こういった所にあると考える。

棲む家は自分たちで築くもの

 
 

ただ、故郷を捨てて自分だけの世界を築いても、一体何の意味があるんだろう?
と、考え改めるようになった。繋がりを断ってしまったら、自分一人になったら
自分一人の一生分しか、それが存在できなくなる。
誰の目にも存在しないセカイになってしまう。

孤独では、永遠性がない。
肉体が死を迎えた後、守り手の居ない樹林、また土地が好き勝手にされてしまうじゃないか…
本当に人との繋がりを断ってしまったら、人間社会に私は存在しなくなる。
また人間社会の闇に飲まれ、樹を削られ、死ぬ。自分の生き様が無かったコトにされる。

「人間ども目」

 
そんな視点で、生きなければ、ならなくなる。

 

 
なぜ悪態をつくか? 呪詛を生むか?
いい大人が理解しないからだ。

子どもの訴えを、赤ん坊の嘆きを、動物たちの想いを、植物たちの存在を、微生物たち、菌の存在を、そして大きな大きな樹の恩恵を
あいつら、視ようとしない…のか?

平気で、土を埋め立ててコンクリ詰めするでしょ?
教育、一方的なしつけ、農業、農薬、除草、殺虫剤、畜産、除菌、薬剤投入。
全て似たようなもの、全て「想い」というものを無視している。生命の尊さを一切無視している。魂ある者、意志ある者を黙らせ、まるでモノのように、システムの奴隷として生きよ!と
 

あれは暴力。死に勝る大罪。
殺人と同等に罪深い。

それをする意味、分かってやってるのかな?
大人、人の親、農家さん、土木業者さん。役所。国。政治家。業者。

「やったことは還る」

 
今度はされる側に、なるのだよ。
こんなふうに。

食肉がもたらす惨劇・絶望感

 
 
人間の常識的な生き方が、知らず知らずに苦しみをもたらし続ける。

この世の常識が全てだと思って、社会の都合のいい部分だけ見て、気に入らない部分を無理やり強制しようとしてはならない。
目を背けたくなるような部分にこそ、本当の生き方…真実の姿を明らかにする鍵がある。

節分の話

「常識」と云う名で「大切な想い」を殺し、半強制的に示してきた大人たちの、あれらへの、怒りと、殺意を、凝縮して、
身近な大人へ。殺意を込めて。死ね。
そんな感情を、私たちの存在は、内包していた。
後に、その大人たちは死に絶え、最初からなかったコトにされるんだが…

 

だが、その場に遺された子どもたち。常識に生きるために、苦しみを抑えこむしか許されなかったあの子。
またそういった固定観念に囚われた子どもたちが、大人になってしまったら
悲劇は終わらない…

 

私一人、想いを叶えても意味が無い。
子どもたち。子どもたちを守らないと…

だから、故郷を捨てることは出来ないんだと。

 

 
それに身近な大人は理解する。

賽は投げるものじゃなかった。
私が大人気なかった・・・
もう、無力な赤ん坊じゃないんだ。
ちゃんと言葉で伝えることが出来る。

私は私の生き様を、ただ理解して欲しかっただけ。
子どもも赤ちゃんも動物も植物も土も微生物も菌も、その想いは一緒。 

想いを叶えてあげたなら、この世の真実のひと欠片が、少しずつ見えてくるようになる。


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棲む家は自分で築くもの

家の設計は、外野任せにするものじゃ無いんだ。
そうすると、他人の設計したとおりに暮らさねばならなくなるから。

以前、マンションのことを書いたけれど
都会の生活にかかる代償

 
この例は、未だマシな方かもしれない。
少なくとも、数ある物件の中から多少は選択することができるから。

 

一戸建てを1から建てる時が問題。

絶対に心しておく事がある。
「棲む家は、自分たちで築くもの」だということを。
 

自分たちの手で、部屋数とか間取りとか設計するんだ。
自分たちの暮らしたい日々の生活をイメージしながら…
暮らしやすいように、好きなように設計していくって当然のこと。

生活基盤の家は、自分たちで創りあげるもの。
 

設計なんて簡単かんたん。
難しいことは何一つ要らない。

例えば、うちの場合は6畳間が一つあればイイ。
(残りの区画は、広大な庭でw)

イメージモデルとしてはこういうの。
自らの手で生活の場を築く

 
もちろん、これだと彼女から壮大なツッコミを入れられるのでw
住まいの設計は、彼女(と未来の子どもたち)の要望通りやってくと(笑)

うむ、たぶんすんなり作れる。
ライフラインも簡単に確保できる。
 

うちには、広大な庭があれば十分(‘ ‘*)
(ここは自然任せ、楽だし)

 
 
で、家を実際に建てるのも自分たちでが望ましい(ある程度、助けも借りるけど)。
殆どを自分たちの創れる範囲でやれば、何かあったときも直ぐに対応できるから。
大掛かりな下水道工事や配線工事とか、定期メンテとか、本当は必要ないんだ。
 

大掛かりな工事を必要とするような家が今は乱立してるが、実に異常なこと。
これ、自分たちでは暮らしを自由にコントロール出来ない!という手厳しい思い込みを生み出しかねない。

その結果、建築費用は食うわ修繕できん箇所が出てくるわ、維持費は掛かるわ…老朽化は進むわ…
そんな負債を、さも当然のことのように受け入れねばならぬわ…いい事一つもない。
特に、将来的に子どもが家を引き継ぐ時に、
設計の作り変えが出来ない!という部分が致命的なんだ。 
 
 
子どもたちの自由が効かない家に、未来はない…家出せざるを得ないんだ。
その分たくさんの新しい家が必要になるが、これまた設計が固定されちゃうと、その後のつぶしが利かなくなる。まるで墓石だ。
どんどん土地がオンボロ建造物に埋め尽くされ、空き家だらけになる。というダメダメな流れが視える。

今、家が空き家だらけになってるのは…
一般的な家の概念が、子どもたちの引き継げない(寧ろ負債的な)創りになってることの現れ。

 

そうじゃない。
 
両親の想いを込めて創った家があり、
その後、子どもたちが自由に創り変えられる設計こそが、本当の家。

そのためにも、棲む家は自分たちで築き上げるのが一番なんだ。

 

やってみれば簡単なことだよ〜ん(‘ ‘*)


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