ほんの些細な綻びが、現実を凌駕する

過去を振り返る中、それは誕生の頃にまで遡った。
 

どうしてお母さんは、こんなに苦しい思いをしなければならないのだろう。
気づけば、母を見てそう思っていたみたいだった。

 
生きていくには、住む場所と食べ物があればいい。
それは昔から知っていたことだ。それさえあれば、苦しくないんだ。
なのに、どうして母は、食べ物を作ることをしないのだろう?
なぜ机に向かってばかり居るのだろうか?

 
そんなことをずっと不思議に思っていた。
曰く、資格をとるために「勉強」をしているのだという。
勉強してしけんに受かって資格をとれば、仕事につけるそうだ。

 
「どうして畑を耕さないの? 食べ物は何処から来るの?」

尋ねようとも、一向に聞ける気配ではない。

 
「この資格さえあれば、たくさんお金が稼げるからね。生活に困らなくなるからね?」

そんなこと言ってたような気がする。

 

この頃から思ってた。
なぜ、(母は)こんなに苦しい思いをしなければならないのだろう?
今してることに、何の意味があるのだろう?って。
子供の目線で考えると、本当に理解できない気持ちだ。

 

昔から、仕事?とか何やってるんだろうとか、
社会に対してどーでもいい目線だったのは、親のこういう姿を観てきたからだ。
子供は、大人が思ってる以上に物事をよく観ている。
 

「(お母さんが)楽に生きられるように、どうしたらいいんだろう?」

 
子供の頃、たぶんそういう目線で何事も観てきた。
何も知らない子供だったから、余計な目線が一切ない。
常識教える大人も居ないので、純粋に、目の前で起こってることに集中できた。

 

最初は、農家さんとか良いんじゃないかなって思った。
だって、食べ物で困ることは絶対にないんだもの。
それだけで生きていける。

これを親たちに話すと、
たしか「お金が稼げん」とか「キツイばっかり」とか云ってたような…

そうか、お金稼いで食べ物買うのが効率がいいのかー(‘ ‘*)?なんて大人の意見を聞きつつ。
それだったら食べ物作りながら、お金稼ぐのがいいのかな〜なんて思いつつ。

 

生き方のビジョンは、既に子供の頃から考えてたみたいだった。
そう。始まりはまず、この目線なんだ。

「どうして苦しまなくちゃならないのか?」

 
大人が云う、普通に働いて普通にお金稼いで普通に生きるというのが
少し道を外れただけで苦しそうな当時の母の状況を思うと、まさに疑問を抱かざるを得なかった。
「勉強」とかに対してもそう、母の姿を見て、それは必要ないものだと自分の中で判断した。

 

「普通に食べ物育てたらいいだけなのに…」

 

 

故に、子供の頃から「学校」や「社会」とは一歩引いた目線で物事を見ていたんだ。
故に、食べ物が中心。どうやったら生きるに困らないか?の目線。第一が食べ物。

それ以外は割りとどーでもよく、学校のお勉強を前に、本心では別のことを考えてた。

 
そんな目線に至ったのは、子供の頃の「苦しみ」から来ている。
何が何でも何とかしようという想いから来ている。
目の前の苦しい現実を、純粋にありのままに見つめることで、
そのカラクリを解き明かそうとしていたんだ。

 

もしも子供の頃、両親が幸せそうに映っていれば、
現在に対して疑問など持たなかった。

 
ほんの些細な綻びだね。
苦しみ、絶望、目の前の。たった一人の。
本当に、本当に、ありえない程の、理不尽な光景。

 
現実なんて、簡単に崩れ去ってしまえるんだ。


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子どもの教育費

田舎で最低限の暮らしをするのにお金はかからない。
多少はいるだろうが、死ぬほど働かねばならぬほどじゃない。
月5万で回るんじゃないか? 余剰分はレジャーだ。
 

で、そこで問題にのぼってくるのが子どもの教育費。
子どもの教育、今の義務教育では学校にいかせる必要があるが…
田舎では、学校がない、或いは、ものっすごく通学に時間がかかるという問題がある。

 
だが、その教育の在り方こそが、本当に必要なのか?というのも考えて直してみる。
自分の今までの人生の場合に限っていえば、学校とか、特に塾とか、必ずしも必要なかったわけだが・・・

親の払ってくれた学費はほとんどが無駄に終わった。

 

 

 
しかして・・・

子どもたちにとって学び場は、自前に用意できるわけで…

 

それは自分たちの土地に棲むあらゆるもの。

両親たちによって形作られた箱庭、
小さな世界で日々を冒険しながら、そこに訪れる様々な生き物、植物、動物たち。そして地域の方々との交流を通して社会性を学ぶ。
季節の移り変わり、星の巡り、雨の情景。空気と香り、そこに成る食べ物の味、想い出、そして最初の樹の言葉。
それらを通して、多くの自然、星、宇宙の情報を記憶するようになる。

自分で巻いた種を、作物を育て、収穫し、食べる時
その一連の生命の循環を、食べ物を通して全て学ぶことが出来る。

それらの中には、あらゆる学問の根源なるもの全て宿る。

 
現代科学ではとうてい及ばない、植物の気持ちや、それらが場に与える影響。
自分の作物が生きてきたこれまでの記憶すべてを、自分に宿すことが出来る。
本当に完全な状態で情報を取り込むことが出来たとき、自ら植物の効能をフル活用できるようになる。

よもや、一般教養なんて目じゃないレベルにだ。

 
学校で勉強せずとも、人は勝手に考えて学んでいくもの。
なぜそうなるのか。答えを、日常の生活の中に見つけることが出来るもの。

このサイト内にあるほとんどの情報は、ベースとして学んだ知識はあったが、ほぼ実生活の経験から得たもので
まだまだ及ばずながら、最低限生活できる知恵ならば、実生活の体験だけでも授かることができると思う。

 

現代の教育のあり方、そのものは果たしてどうだろう?
何のために? 世の中生きやすくするために?
或いは人間社会にとって都合のよい人材を育成するために?

 
とか、都会の教育システムって、ある部分で間逆な気がするんだ。
学歴社会がほぼ崩壊してる今、大部分が機能してない気もする。特に中学〜高校と上がるにつれて

(もちろん集団の場である学校は、友達を作ったり、人間関係について学べる、貴重な場でもあるとは思う)

 
 
しかし、もっと自分たちの暮らしたいように、自由に人生設計することを学ぶならば
無理に学校に行く必要は無いはずだ。
自分たちで学べる環境は他でも創ることが出来るのだから。

無論、お金かけなくて…だ。
 

教育費の最低ラインは0が可能。
ここでも余計なお金は、必ずしも必要でなくなる。


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どんな子に育って欲しいか

子供は見たものを瞬時に記憶する

「何もない」は才能。
どんどん情報を記憶してくから。

 
真っ白なキャンパスに、家族が生きる独自の世界を作って
子供を迎え入れてあげれば、その子は、両親の世界観を綺麗に受け継いで成長していく。

子供に強制的にと、教えを言い聞かせる必要はない
生きる環境、その子を想って創りあげた生活環境を
子供の人生の一部にと予め与えてあげると、すんなり受け取ってくれる。

参考 ⇒ 自分という存在を拡張した考え方

 
両親の世界観を「身体の一部」として、子供は成長する。
胎児でいる段階で、どんな子になりたいか。どんな子に育って欲しいかを語りかけ
それにあった生活環境を用意してあげるといいと思う

ただし子供は、親の子である以前に、私たちと同じ自然の子でもある。
最終的な人生の選択は、その子自身が行う


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子供は、発見したことを教えてくれる

お話してると、今日発見したことを教えてくれる。
殆どの大人は、たわいない子供のお話だと思うかな?
そして、頭のいい大人の知識を覚えさせようとするかな?

ちょっと過去記事に関連
一方的に教えるのはありえない

 
さて、子供は実に興味深いことを話してくれる。
子供の目線、何もフィルターがない、殆ど純粋なありのままの見解が聴ける。

この見解、すっごく面白いことがある。
そーなんだ〜。へ〜。え?そうなの?

教えるんじゃなくて質問してく。
そして、こういった矛盾に行き着いたら ⇒ 嘘の代償

それは勘違いだったということ、存在しないということ。子供は話してて自分で気づく。

一方で、どんどん「お〜、なるほど〜」となっていったら
それは全くもってその通りだということ。今までになかった目線で。
子供は、自分の発見で両親の役に立てたことを喜ぶ。
これも、その子の自信につながる。

 
子供のお話からは、教えられることが多い。
何も言わずして、子供は自ら学ぶ。


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一方的に教えるのはありえない

時代は変わりつつある。
以前の考えが、通用しなくなってきている。

 
過去に絶対的な教えだったものが、
今では世迷い言に変わってるモノもいくつか見受けられる。

 

教える、ということは。
自分の情報を相手に分け与えるということ。
このとき、自分のエネルギーが相手に宿る。
相手に食べさせるということに等しい。

たぶん、WEBサイトに掲載されてる情報は、書いた人のエネルギー一色。
一方的に閲覧者に働きかける。読む人にエネルギーを食べさせて、自分の考えを浸透させていってる。

読者は、私の世界に触れて、何を感じるだろうか。
そこで違う視点にふれて、自分の世界を広げていくだろうか…

 

しかしこれ、教わる際は気をつける点がある。

「学校」の場で置き換えるなら、教えるというより、先生に「教えさせてる」感じである。
もし子どもたちが、仕組みに動かされてる(教えさせられてる)先生の元で習うとしたら
「仕組みに操られエネルギー」を、そのまま子どもたちに感染させてしまうということにもなってる。

もしも、子どもたちが「言うことを聞きなさい」ばかり言われてたら…
その「洗脳みたいな言葉」を半ば強制的に受け入れないといけなくなるんだ。

 
そうやって、仕組み(世の中のルール)に動かされる人形が増えていく。怖いね。
仕組みの中では、なぜかそういう人が生きやすい世の中。上の立場の思い通りに動く人形みたいな人が生きやすい世の中だった。
過去の時代では、言われた通りお利口さんで居ることが、一つのスキルではあった。歪な人間社会の中で、生きる知恵みたいなものだった。

しかし、人間社会は人間社会単体では存続できない。
必ず、自然界という場があって、その上じゃないと人は生きていけない。

一方的に教えられるのは本来ありえないんだ。教える側が消耗するばかりだから。
教える側が一方的にそうなったとき、自身の考えに固執し、それだけが正しいと信じ、ついに視野が狭まって、周りの変化に気づかず、
時が経つに照れて時代背景、周りの環境のほうが変わっていき、誰も彼らの考えに賛同するものがいなくなる。

彼らの世界は消失していく。

 
本来、自然の中に生きるなら、そうはならないんだ。
常に視野を広げてないと、状況の変化を見定めないと、足元救われるのを肌で感じるから。
教えてるようで、実は教えるのと同時に、何らかの形で自分も教わっていく。

しかも、そういった者の生き残っていくのが自然の理。

 

一方的に教わる。言われたとおりに動く。は、仕組みに毒されるだけじゃなく
最も重要な状況判断力、適応力、生命力が鈍る、環境の変化についていけなくなるので
この先、変化の時代を生き残るなら、肝に銘じたほうがイイ。

必要なのは、自分で感じ、考えぬくこと。

 
生きる力。


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