何事も、工夫なのです。
工夫とは?
ないものはない。
だから別の何かで補う活路を見出す=工夫
工夫を活かすと、出来ることが増える。
「自分のスキル、持ちモノ」×「どう使うか」
能力は、才能だけにとどまらず。活用法なんだ。
自分が1つの才能しか持たないとしても、3つの活用法を見いだせれば、一気に能力は3倍になる。
持たざるモノ。自分には何もない、そんなことはない!
今ある自分の活用法をどんどん開拓することで、眠れし才は突き動かされる。
何でもお金で解決する現代の風潮が、工夫する知恵を見えづらくしたが、
例えばお金がなくなり、今あるモノでどうにかしなければならない!八方塞がりの状況に陥ったとする。その瞬間は不幸に感じるものかもしれない。
しかし何もないどん底を経験し、今あるものだけで、あらゆる方法を駆使して其処から這い上がる覚悟を持てば、お金以上の価値を、これからの人生、違った面で見出だせるように成る。
お金だけにとどまらず、あらゆる存在に関して。活路が視えてくる。
苦境とは、そういう感覚だと思う。
何かを始めるのに遅すぎるなんて事はない。
とある社長も、同じことを仰ってました。
(早い方が良いにこした事はないとも言ってたけど)
その社長さん、今の事業立ち上げたの45歳だと言ってたし(驚
人生どうにもならないと思った瞬間に打ち止めなの、気のせい。
30までで決まるとか。
ないない(‘ ‘*)
新しい可能性は、いつも芽を出し続けとる!
今からでも、新しい世界を開拓していける。
オリジナリティを発揮するのは、今この瞬間からすぺしゃる。
道は踏み外してこそ、存分に人生の才覚を発揮できるので。
過去にこんな記事を書いた。
⇒ 乳酸菌から学ぶ、ネット情報の信頼性
乳酸菌は発酵しないという環境にいる人
乳酸菌が発酵するという環境にいる人
どちらの言い分も、ある面で正しかった。
もし自分の境遇だけを正しいと考えてしまえば…
相手の「前提」とする視点を知らないまま、終わってしまう一例。
しかし、なぜそうなるのか?という視点で
自分と相手の「何が違うのか」を理解しようとすれば、たちまちその謎が解明される。両方の正しさを理解できる。
そして、最終的に望ましいのはどちらか、自分の感性で選び取れる。
先日、こんな会話をした。
「動物性も食べないとダメだよ?」
「いや、動物性は食べる必要ないんだよ」
「ベジタリアンの人は寿命が短くなるってどこかの研究で証明されてるよ?」
「ベジタリアンの人のほうが寿命長くなるってデータもあるぞ?」
心配して、身体を気遣ってくれているのは有りがたかった。
ただ、どちらの言い分にも、それぞれの正しさがある。
お互いに前提とするところが違うんだ。だから意見が行き違う。
⇒ 自然の味、素晴らしい
ここでは、お互いの思い描く「野菜」が全くの別物だと感じた。
野菜の栄養素も美味しさも全くの別物。
つまり、自然の「野菜」が十分に揃わない内は、なるほどそーか(‘ ‘*)!
「正しさ」とは前提とする境遇で変わるものだな、と思った。
正しさの基準は相対的で、皆が皆に当てはまるモノでもない。
単に、前提が実現可能かどうかの問題。
まぁ前提が実現可能って、前提はどういう形であっても実現はできる。誰もが実現できる。その方向性に良さを見いだせれば、すぐ変われる。
「その方向性に良さを見いだせれば」
一見相容れないような世界、色んな世界の良さを
自然体で、ありのままで体感できるようになったら、どれだけ良いだろう。
自分たちのライフスタイルを自由に選べるように。
なりたい自分に簡単に変われる。
違う世界の素晴らしさを知って、簡単に取り入れることができて、もっと色んな人と喜びを分かち合えるような。苦しみだってすぐ成長の糧になって、瞬く間に独自の持ち味が活きて。
なぜ?
どうして?
相手の正しさを認める、疑問点が浮かぶ。
自分との違いに興味を持つ、疑問点が浮かぶ。
この気持ちが、今まで無かった世界と繋がるきっかけに。
そうやって世界のパラドクスを紐解き、
いろんな場所、渡り歩ける範囲を広げていけばいいかの。
理想の実現までは未だまだあるし、現状でバランスとるか。
まずは植木鉢だな(‘ ‘*)
優しくなれないのは、自分に余裕が無いから。
心に余裕があれば、誰でも視える範囲で優しくなれると想う。
余裕を持つには?
何もかも解き放つ。心にゆとりを。温かみを。感じて。
今、ここに生きている実感を、風の香りを。地面の土を。
私は此処に生きてる。
此処には全てが揃っている。
何もかも、あるがままで素晴らしい。
優しくない人は、思いやりの心を持っていないのではない。
今、思いやれる心の余裕が無いだけ。
余裕をもつ…というのは。
今までにない、考え方を学ぶことに似ている。
もしくは、あるがままに全てを任せることにも似ている。
全ては自分のために在る、と。
目の前の物事を、あらゆる面で信頼することにも通ずる。
少しずつ昔の感覚を思い出している。
たくさんの蔦が絡み、中の植物さんは苦しそうにしている。
この蔦は、植物のせいではなく、周りのコンクリートをどうにかするために生えてきたもの。
が、蔦がもっとコンクリートを破壊する力を得るのに、近くの植物からも栄養を吸収しないといけないのだ。
そうして、宿主の植物は弱り、蔦は勢いを増して、場全体の弊害である「コンクリート」を朽ちさせようと懸命に働いている。
蔦についての過去記事
⇒ http://goldenflower.jp/blog/3012
この時、蔦はとても懸命に働いてるが、人の手で場をどうにか出来れば、もっと簡単に解決するわけで。
それを蔦に伝えるために、枯れかけた蔓を取り去り、見栄えをスッキリするようにした。
絡みつかれた植物もスッキリ。コンクリートも建物も、その外観がハッキリ視えるようになった。
ところで蔦。蔦は気づかせてくれる。私に話しかけてくれる。
蔦が絡みついて朽ちかけた場所は、永遠には残らない。と…
それらは、もっと別の何かに変わりたがっている。
ならば蔦の役目を背負った私が何とかするしか無いのだ!と…
蔦は、まるで人でいう「病」のようだなと想った。
場に何らかの矛盾を宿してる時に、その存在によって、改善点を指摘してくれるんだ。
それは最小限の苦しみで始まるが、気づかなければどんどん蔦は絡まり、負の存在を強めてしまう。
私は、苦しみを解き放とうとした。
蔦が、強固に、雁字搦めになって、一筋縄では行かなかった。
絡みついた糸を、一本一本解いていくのでは埒があかない。
だから、時には強引に引っ張ったり、引きちぎったりもした。
「痛っ!!!!」
そんな植物の声が聞こえた気がした。
僕がキミを、乱暴に扱ったと思われてしまったのか…?
キミが蔦に絡まれ苦しそうにしてる様子を、僕は何とかしたかった…
だが、蔦は強固だ。ちょっとやそっとじゃどうしようもできない。そりゃなるだけ丁寧に、傷つけないようには気をつける。
が、いつしか自分自身が消耗して疲れてしまうので、終いには強引に引っ張る他なかった。。
この時、何となく。あの言葉を思い出す。
そうか、この事か..
配慮が足りない、受け手がどう感じるか見ようとしてないというのは。
なるほど、優しく、痛くないように。。と、もっとやり方があるのだろう。
強引さに頼るのは、楽だ。手間を掛ける必要ないし、何より結果が早い。上手くいくならそれに越したことはない。
まぁ、絡みの浅いのは、強引に引っ張ってもダメージほとんど無いしな…
が、絡みつく蔦の数や太さが強固になるにつれて、強引さは宿主である植物をも傷つけてしまうわけだ。
はやく、早く苦しみから解放したいのが私の正直な気持ちだ。
が、手順を考えなければ、植物は耐えられない。か。。
蔦は、1本ずつ、まずは鋏で断ち切る。
一本ずつ。