忘れてた。
植物にとってお日様とはお日様だけでなく、人もそうだったんだ。
人の吐く息は、そのまま植物の栄養になる。二酸化炭素と水。
人の吐く二酸化炭素と水には、その人の記憶が凝縮されて宿っている。
親しい大切な植物たちにとって、それは特別なもの。
主の記憶ほどの偉大な恵み、さもありなん。
なぜ植物に話しかけると元気になるの?
こういうところでも証明できるのかもしれない。
人はそこに居るだけで、側にいる植物たちの太陽になれるのだということを。
人と自然とが分断されたとき、そういった記憶を忘られてしまってた気がする。
それは、お互いにとって悲しみの音楽だった。
人は植物がないと生きていけないし、吐く息は側の植物たちに届かず、ただ生きること、その尊さを見いだせなくなってた。
逆に植物は側に人が居ないと見えない栄養が行き渡らず、自分が何のために生きているのかも分からず、その役目を遂行できないでいた。
お互いの存在理由が見失われ、存在価値を見失い、世界の人形と化した。
繋がりを思い出すことで、記憶は復活するんだ。
自分の生の尊さと、相手の生の尊さ。
お互いの存在が助けあって初めて存在できるということ。
ただ生きてるだけで、他の存在の役に立っているということ。
自分の生きた証は、これまでに関わった存在に刻まれる。
人の吐く息が植物の栄養になり、植物はその人の記憶を宿す。
人はその植物を食べ、自らの記憶と植物の記憶を体内に宿す。
そうして、お互いに循環する。
植物の記憶は大地の記憶。大地の記憶は星の記憶。星の記憶は宇宙の記憶。宇宙の記憶は創造主の記憶。
創造主の記憶が人間に宿る。
死んだら何が残るのか。
身体は土に還る。
モノはいくつか残るかもしれない。
高価な鍋とか、珍しい収集物がいくつかある・・・
いくらか芸術的価値は出てくるだろうか?
そして私の場合は、このサイトのデータが残る。
それと、生前描いてきた作品(音楽とか文学とか)が残る。
・・・
私の人生とは何だったのだろう?
死して振り返ったとき、そこに残してきたものを顧みるのです。
この人生をかけて、ひたすら何かに打ち込んできたつもりだった。
結局は何だったのだろう。
なんとも言えない、物悲しさが残る。
人生で何を成したのだろう?
不完全燃焼気味でもある。
仕事に打ち込んでいた時間が惜しい。
あんなもの、何にもなりはしなかった。
最低限生きてくくらいの金があれば
あとは好きな様に生きたほうがいいのだ。
私には人生をかけてやるべきことがあった。
それを忘れて、目先の仕事に囚われたか!?
やりたくもない使命感に囚われたか!?
後悔が残る。
今、私が死を迎えたら
サイトのコンテンツしか生きた証が残らない。
これが私の生き様なのか?!
遅い。気づくのが遅い!
遅いが、まだ間に合う。
自分の人生は自分のもの。
死してなお誇れる自分であれ。
私は私の生きた証として、創造することを続けていく。
綺麗なお月様でしたね。
もう一つのブログのほうで、お月見の様子を書き残しておきました。
http://timelessberry.com/blog/505
http://timelessberry.com/blog/509
さて、しばらく図書館篭もりしようと思います。
月は鏡、地球を、自分を映し出す印。
月を見て、月に映る自分を見る。
湖を覗きこむ感じで。
その後、水に蓄積された波紋を読み取る感じで。
私が月を映す時、月にとって私は鏡となる。
月の図書館。
記憶のライブラリー。
現実のほうでは。
記録がたくさん記載されている、昔ながらの大きな図書館があって。
あそこには噴水があって、塔が立ってます。
あの場所に、引きこもって物語を追うのです。
過去の誰かの言葉が引用されるとき、言葉が今の瞬間に生を得ます。
私は過去を映す鏡になって、記憶を現実に再現してみたいと思ってます。
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- みた夢の記録
- 2014年10月15日
明日は皆既月食が見られる。
日本時間で18時過ぎに欠け始めて、21時くらいに元に戻る。
見るならお気に入りの場所で眺めたい(‘ ‘*)
私なら夜の庭園にある湖の側かな。
それとも山の展望台の上。
どちらも真っ暗。
満月は明るいけれど、月が隠れることで新月みたいな暗さにもなる・・・
だから、月の情景と星の情景。どちらも楽しむことが出来るものです。
お気に入りの場所で、お気に入りの存在と一緒に月食を眺める。
いいですね〜。
久々に石や木、星たちと語らいますかにゃ(。◕ ∀ ◕。)ノ
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- 日常のこと, 旧暦の話
- 2014年10月07日
生命は、様々な存在たちがあってそこに生きている。
人、人は自分一人の意志だけでは生きていけなくて、細胞の核、そこに触れる空気、水、植物、土、微生物、という地盤があって、そこに生きていける。
オーラを見るということについて。
オーラはその人自身より、その人の取り巻く環境を感じ取ることで見えてくる。
その人は、どんなものを食べ、どんな部屋に住み、今日はどんな服を来て、どんな人達と関わりあって生きているのか?
一つ一つの事実が、人を取り巻くオーラの全体像を教えてくれる。
その細かい事実の集合体で、その人から醸しだされる雰囲気が、自分にとってどういうものか。
というのが、自分から見たその人のオーラになる。
見た目の色だけじゃない。
香りや音、立ち振舞とか、居る場所とか、そういうのも含まれる。
オーラは、必ずしも見えないものだけじゃなくて、見える部分や香りや雰囲気から自分が感じ取るもの。
わりと現実的なものだと思う。
例えば、真昼間にいつも同じ服を着ている人が居る。
袖が破けてるのを、そのままにしてる。服装は黒っぽい。髪は無造作に伸び放題。
ここから見えてくるオーラ(印象)は、
「なるほどこの人は、会社勤めではない。人に気づかうことをしない性格で。自分の外面にはさほど興味が無いようだ。いつも同じ服着てるからお金がないのか? 袖が破けてるのはみっともない印象だ。」
というものになります。
その人の本質はどうなのか、この時点ではよく分からないけれど。
少なくとも、その人はぱっと見そういう人である(貧乏でろくな仕事してない)だろうと解釈されてしまうわけですね。
そう思われることで、本人は結構損してる部分がある。
これが、オーラが現実に与える影響。
で、このオーラは、見る人によって感じ方が変わる。
会社勤めという概念が一切ない人にとって、まず「ん?」と思うところがひとつ抜ける。
そして、物がない時代の人にとって袖が破けてそのままというのは、別に気に触るものでもない。
「解れてるのを直してくれる人が居ないのかしらねぇ?」という別な印象を与えるかもしれない。
靴はピカピカ。あれ?
その人の表面のオーラを一切無視して、次は目の奥だけを注意深く覗いてみる。
すると、その人がどういった意志を持って生きているのかが、何となく感じられるようになる。
この人は、自分の持ってるお金や時間を、身だしなみに使うべきリソースを、
すべて別なことに使っている。其れ以外のことはどーでもいいと考えている。
他人のこと一切考えてない。世間の風評も一切考えていない。
いったい、この人は何を思って生きているのか。目は一心に何かを見続けている。
それは何だ?
もっと奥の部分まで見ようとすると、次は行動に出る。
単純、それは話してみたら分かる(‘ ‘*)
オーラは、本質を見ようとすればするほど、
表面の細かい部分はどうでもよくなり、もっと芯の部分に焦点が合うようになる。
本質に近づくほど、それが0能力っぽくなる。(霊能力?)
本質の部分は、その人の意志。意志が目に宿り、言葉に宿る。生き様に宿る。
それを構成する、その人を取り巻く環境・・・の残留思念が、その人の意志の方向性を醸し出している。
オーラを見る、
表面の印象をみるのが現物を見る人の思考。
本質を見ようとするのが意志を読み取る0の思考。
両方の視点からその人を判断する。
0は、余計なものをきっちり取っ払って冷静になった時に特化する視点。
より鮮明に、自分にとってありのままの現実(オーラ)が映し出される。
断食や断捨離が流行ったのは、0能力
自分にとってのありのままを知りたいと思う人が増えたからかも。