縄文の人がこの世を去る時、遺物も一緒に自然に還していた。遺跡の土器もだいたい粉々。
その理由、これまたエネルギー(物質の元素)の視点で見ると分かると思う。
自分の都合で築いた構築物は、子どもたちにとって不要だから。
作品でも、コレクションでも、便利な道具でも、それが自然から切り取って作られたものなら尚更。
どんなに自分には価値のあるものであっても、子どもたちには多くが不要なものに映る。
情報の詰まった叡智、永遠に必要とされる真理を宿したモノ…も中にはある。
しかしそれ以外の芸術品や想い出の品などが先代の遺物として残っては、全体のノイズにしか成らないのだ。
世界全体のエネルギー(物質元素)の質量は変わらないなら
異物が残っている分だけ、自然界からロスが出ている状態。子どもたちの世界が狭まってしまうわけ。
だから先人たちは、この世を去る際に自らの遺物をも自然に還すことの大事さを知っていた。銅像や墓標なんて無かった。
全てが役目を終えたとき自然界に帰すから、自然界は永遠性を保ちながら、その時、その時に合った形を自由に保っていられたんだ。
はるか土の下。記憶の層の中に、活きた記録は永遠に残り続ける。
形として残さずとも、それで十分だったんだ。
そのことを忘れ去った私たち、その頃の先人たちの感性を、再び学ぶ必要があるんじゃないか?って想う。
実際、遺物だらけになってしまった世界において、子どもたちは多くのモノや親世代のしがらみに囚われて、思うように動けなくなっていた。
⇒ 棲む家は自分で築くもの
⇒ 資本主義の落とし穴
遺物を自然に帰すことの大切さ。
根拠があるとすれば、こういった例から汲み取れるんじゃないかな。
本当に子どもたちを想って生きるならば
自分の手元にあるもの、できるかぎり自然に還すことができるもので生活すること。
どうしても自然に返すことが出来ない工業製品…
自分たちの手に負えないモノに関しては、極力身の周りに置かないこと。
少しの心がけで、私たち家族は、未来永劫もっと暮らしやすくなるように想う。
明日は皆既月食が見られる。
日本時間で18時過ぎに欠け始めて、21時くらいに元に戻る。
見るならお気に入りの場所で眺めたい(‘ ‘*)
私なら夜の庭園にある湖の側かな。
それとも山の展望台の上。
どちらも真っ暗。
満月は明るいけれど、月が隠れることで新月みたいな暗さにもなる・・・
だから、月の情景と星の情景。どちらも楽しむことが出来るものです。
お気に入りの場所で、お気に入りの存在と一緒に月食を眺める。
いいですね〜。
久々に石や木、星たちと語らいますかにゃ(。◕ ∀ ◕。)ノ
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- 日常のこと, 旧暦の話
- 2014年10月07日
節分の話その2。豆まきについて。
その1はこちら ⇒ 節分の話【鬼は内、福も内】
豆をまくのはなぜですか?
古代においては、鬼は追い出すものではなかった。
鬼を追い出すために、豆を撒くのではない。
今年の抱負を豆に託し、望みの芽が出ることを祈願するために。
豆を蒔いたのだ、と伝え聞きます。これは、普通に考えれば分かることです。
2月3日は、立春。
古代では、今日から暦上の春。
今年一番の種を蒔く日が今日なのですから。
蒔くでしょう?種(豆)を。
今年も、多くの実りを結びますようにと、願をかけて。
今年も、実り多き一年となりますようにと、自らの人生も一部託して。
現代の節分は、いいですか?
よくよく考えると、おかし〜〜〜んですよ。
なぜ炒り豆ですか? 芽が出ないじゃないですか!
資源の無駄じゃないですか、食べ物の無駄じゃないですか!
芽が出るのを縁起が悪いって何ですか?
だれかそんなこと言い出したんですか?
鬼を追い出すために豆?それは豆?
いやいや遺伝子組み換えの兵器ですよ(。◕ ∀ ◕。)ノ
芽が出ませんように、って。
親切にも現代版の節分に見合った豆を用意してくれてるわけです。
芽が出ない遺伝子組み換え大豆を、蒔いてくださいねって。
どんなに頑張っても
どんなに努力しても
芽が出ることはありませんよ?(。0 _ 0。);;;;
だから、一生養分のままで居てくださいね^^;
福は内に入れさせてあげるから、ほら。幸せ感じてハッピーですね。
よかったね。
めでたしめでたし。
そういうのが、近代版節分の風習ではなかったですか?
世の中を見てたら、まさにその通りの風刺画になってましたもの。
そりゃ、一年の節目となる大切な時期に、そんな願掛けをさせられたら。。
ねぇ。。。
例え知らずにやってたとしても、
それを何も考えずに実行することの愚かさを
今、身を持って体感してるはずです。
豆を蒔く。
生きる基本から、巻き直す必要がある。
しっかり土に蒔くのです。
芽が出ることを祈って、今年一年の望みを、抱負を、目標を
芽が出ることを祈って、生きた豆を土に蒔いてください。
そして、豆と一緒に、自分自身も成長する年としていくのです。
- 2件のコメント
- 旧暦の話
- 節分
- 2014年02月03日
今日は2月3日。節分の日。
旧暦では、1年の始まりを祝う正月のような日取りです。
日本では古くから豆まきという風習があります。
「鬼は内、福は内」
古代から受け継がれた、今年一年の成長と発展を祈る行事です。
みなさんが知ってる言い回しとは違うでしょうか?
なぜ、鬼は外?福は内?
厄災を外に祓おうとするのはなぜ?
現代に伝えられた風習の中には、見えない意図が隠されている。
こちらの過去記事を御覧ください。
⇒ 問題は、さらなる幸福を招く最高のチャンス
病は、なぜ自分にやってくる?
問題は、なぜ自分にふりかかってくる?
鬼は、何のために自分のもとに来てくれる?
その意図も見ようとしないで、ただ目先の悪いものとだけ捉えて
何も考えずに追い出すのが、近代の節分の風習ですよ。
鬼は外といって、薬を撒く。
鬼は外といって、殺虫剤を撒く。
鬼は外といって、防腐剤を添加する。
誰ですか? 鬼を安易に追い出すことを広めたのは?
全ての存在は、全てが自分の映し鏡。
そして、全てにおいて無駄なものなど一つもない。
参考記事 ⇒ 今、目の前で起こってることは
一見、鬼は自分を苦しめているように見える。
しかし、裏返せば。鬼は最小限の苦しみで、其の人に成長の導きを与えているのです。
此処が違う、だからこうではない、こっちがいいよ。って。
まるでコインの裏表。
鬼による導きは、その意図を読み取ることで福となる。
鬼と福は表裏一体。
だから、鬼を外に追いやることは、
自分から福を捨てているのと同じなのです。
そして、鬼という自分の一部分、成長のチャンスを無碍にしているのと同じなのです。
これは「厄年」とか言われてるものにも当てはまります。
鬼、厄、病、ストレスといった様々な問題は、
何も考えずに無視する(祓う)ものではないでしょう。
しっかりとそこに向き合うことで、自分の成長の種を発芽させることが出来るもの。
そして、その先にさらなる深い幸福が訪れる。
ではなぜ、目先の鬼は外?目先の福は内?
現代の、世の中の様子を見てください。
私のブログでも、2014年1月15日辺りの記事ではっきり分かりました。
実体験で導き出した答えが其処にあります。
節分は、今年一年の祈願を意味する。重要な節目です。
鬼を祓うか、しっかりと向き合うか。
どちらを選ぶかは、自分自身で決めることが出来ます。
ただし忘れないで下さい。
目先の厄を払っても、根本的な解決ができないでいると
さらなる厄が、気付いて欲しくてやってきます。もっと強い苦しみとなって…
⇒ 節分の話、続き
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- 節分
- 2014年02月03日