呪われた子

何でもかんでも親がしてあげてると。
子供は死ぬ。

親が子供の食べるものを毎日ぜんぶ用意して
残さず食べなさいね?

 
と、極端な例をあげてみた。
自分で選んで食べることが出来ない。日常。繰り返すうちにそれが当たり前になってしまったら…
勝手に選ばれたモノ…食べきれなかったら、それは誰の責任なのだろう???

 

自分で選んだわけでもない。
言いつけを、出来なかったからといって、誰の責任になる?

良かれと思って世話してる親は、まぁ怒るだろうが///
それが出来ない結果を出されるのは、誰の責任になる? 子供の自分で選んだ結果ですらない。

でも、子は怒られるのを見て自分が悪いと思うだろう。

 
自分が出来ないのが悪い。
与えられたものを消化できないのが悪い。
だから、無理してでも与えられたものを受け入れようとする。

そして、器が壊れる・・・

 
そんな子を、最近まで観てきた。

 
楽だからって…
何でもかんでも親が手出しするのは、マズイんだよ。

 
自分の手で掴もうとせず
ただ与えられたもので生きるだけの人形に成り下がる。
そして、自分の望んだものを自分の手でつかむことを忘れる。

人に依存して生き、自分が思う通りに生きられないのは人のせいだと宣う。

その子は…

 
もはや人間ではない。
ただの人形に成り下がる。

 
嘆かわしい。
嘆かわしい。
嘆かわしい。

 

それは子の人間性を殺しにかかった、無自覚な親の罪であろう。

与えられることでしか生きられない人間は、
どうやったら周りの人間に気に入られるか、力を持った人にどう媚を売るか、を徹底的に覚える。
それは子犬と同じ。愛玩動物と同じだった。

 

私は、そんな人間がこの世に存在するのなんて
思っても居なかった。

人間じゃなくなった存在に、どうして人間として接することが敵おうか…

人としての誇りを忘れてはならない。
自分で掴み取ることを思い出さなくてはならない。


» いつも応援ありがとうございます(' '*)

※ この記事がお役に立ちましたら、ぜひ皆さんにも広めてください.。.:*・゜

>> この記事をfacebookでシェアする

>> この記事をツイートしてみる

情けは人のためならず

情けは人のためにならず。
いわゆる「情」ですな。

 
親子であるからとか
師弟であるからとか
友達で仲良くしてるからとか
夫婦恋人だからとかいう理由で

 
ほいほい相手に合わせる。
自分を後回しにして、相手の意向を汲む…というのは
真に、お互いのためにならん!というのを体感した。

 
我の強さは大事なんだ。
たとえぶつかり合うことになろうとも、それでお互いがお互いを磨き合うことになるから。
逆に、自分を曲げて情に訴えるなど、自分を捨ててるのと同じ。自分が居なくなってるのと同じ。

それでは、真に自分の存在が相手のためになることなどない。
相手と同じ色に染まっては、白紙か真っ黒か、平坦なものしか生まれなくなる。
黒と白であるから、色んな絵が生まれるの。

 
どんなときも、自分というものを保っておかねばならぬ。
それが強さとなり、世の価値となる。


» いつも応援ありがとうございます(' '*)

※ この記事がお役に立ちましたら、ぜひ皆さんにも広めてください.。.:*・゜

>> この記事をfacebookでシェアする

>> この記事をツイートしてみる

人付き合いは駆け引きらしいが

という論。

物語や小説などで、登場人物たちの駆け引きをみると
なるほど、そういうものか!と見えてくる部分もあった。

 
何かしら思惑があって、人は行動する。
人と人が出会う時、一つの思惑ともう一つの思惑が交錯する。

 
駆け引き。

 

想ったことを言う。
こうしたいを言う。

片方はそれを聞く。
片方を聞いて思う。

それは何か?
何のためか?

自分にとって
・賛同できる…
・どうでもいい…関わりたくない…もしくは
・無理…相対する意見の場合はどうだ。

 
考える間もなく、反応を示すだろう。

 
 
正直なとこ、あれやこれや考えて話すのはめんどくさい。
最初に結論有りき。そこに至る道筋は幾分にも有り、強い意志で押し通す。

それくらいの、自己の強さが欲しい。
信念を貫く、何が何でもやり通す意志。


» いつも応援ありがとうございます(' '*)

※ この記事がお役に立ちましたら、ぜひ皆さんにも広めてください.。.:*・゜

>> この記事をfacebookでシェアする

>> この記事をツイートしてみる

自分に責任を持つ

自分のやりたい人生を歩む時、自らに責任が果たせる。

 
 
意にそぐわない選択は、人のせいにする要因。
これが、だいたいの理だと判った。

 
意にそぐわない人生を送ってる人は、誰かに責任を問いただす人は…
無意識にだろうが、自分を捨ててしまってることを自覚しなければならんのではなかろうか。
ほんとうの意味で何とかできるのは、本人しか居ないのに。

方法がわからないのか?
それとも自覚がないのか?
 

もしかしたらとっくに気づいてたんじゃないか…

 

 
やりたいことを、阻むもの。
誰かに対する責任感。そんなもの最初からない。
どんなときも、責任を果たせるのは自分自身に対してだけ。

 
自分自身のしてきたことが、今結果としてある。
すべての人に、それが当てはまる。
自分のことは自分で何とかするのだ。

 
自立できない状態での[他人への気遣い]って、実にエネルギーの無駄遣い。
そういうの、わりとズレありまくりで無駄無駄無駄。

集団社会の恐ろしさよ… 私自身の戒めよ。


» いつも応援ありがとうございます(' '*)

※ この記事がお役に立ちましたら、ぜひ皆さんにも広めてください.。.:*・゜

>> この記事をfacebookでシェアする

>> この記事をツイートしてみる

人を見る

そのままで受け入れられる人もいるし、
そのままで無理が生じる人もいる。

 
全員が全員、ありのままで分かり合えるつもりでいた。
そんなことはなかった。

よく人を見なければ。

賛成 or 無理 or どうでもいい

 
今まで、接する人に対してどうでもいいが多すぎたんだ。
よく見なければ。賛成できる所は賛成。無理な所は無理。はっきり伝えなければ。。。

全体を見て、人を見ず。
人を見て、全体を見ず。

両方の視点を交互に切り替え。


» いつも応援ありがとうございます(' '*)

※ この記事がお役に立ちましたら、ぜひ皆さんにも広めてください.。.:*・゜

>> この記事をfacebookでシェアする

>> この記事をツイートしてみる