自分という存在を拡張した捉え方
自分と他の境界線は何処にあるのだろう(‘ ‘*)?
とても曖昧。
最近、明確な線引はないんじゃないかと思うことがあります。
自分の身体は自分。
身体があるから自分として生きていける。
少し視野を広げる。
周りの空気もまた自分自身の一部とみる。
空気があるから呼吸して生きていける。コレなしには生きられない。
もう少し視野を広げる。
周りの空気が自分自身の一部なら、空気を作り出す植物もまた自分自身の一部になる。
植物があるから空気中に酸素が行き渡り、自分は生きていける。コレなしには生きられない。
さらに視点を拡張する。
日々の食べ物もまた自分自身の一部である。
食べ物があるから身体が万全の状態を維持し、生きていられる。
まずここまで。
自分が生きるために無くてはならないモノ。
これは存在自体は自分自身ではないけど、自分の身体を通って自分の一部になる。
自らが作り出す環境が、自分自身の一部になり。
その環境により、自分として生きていられるような感覚です。
次に自分の身体から出て行くもの。
汗も、吐く息も、自分の生活空間から出る「ゴミ」と呼ばれるものも皆。
自分の身体から出ていくもの、そしてそれらに関わるもの全てが
自分自身の一部、自分の生きた痕跡になる。
それを栄養とするバクテリアや微生物が、自分の一部を土に還してくれる。
自分から離れたモノを食べてくれる存在。土に帰った時、自分自身のエネルギーは再び大地に戻り、
植物たちの生育を助け、そのエネルギーが自分自身に還ってくる。
自分自身の創りだす環境が、全体としての自分自身を形作る。
環境を自分でデザインできると、自分という在り方をもっと詳細にコントロールできるようになるかもしれない。
コントロール出来ない時、それは自分自身を把握できていないということ。
自分は何処からエネルギーを得て、どこにエネルギーを返しているのか。
例えばマンションの一室に住む時、環境から境界線を敷かれ、植物や土に触れることが難しくなり、その場で食べ物を得るのも難しくなり、分断された外から食べ物を得て、自分の意図しない身体に作り替えられることを無意識に選んでしまっている。用を足す時も、自分自身の体から出るそれが植物やバクテリアの栄養にならず、自分に還ってくることがない… 自分のエネルギーが無駄に死ぬ。循環せず、だから寿命がこんなに短くなっていたのか。統一された白い壁、マンションの一室という規格に自分の身体がコントロールされてしまっているような。
一見近代生活は便利そうに見えるが、赤ん坊やお年寄りにとって、これ以上窮屈な暮らしもないだろうと思う。赤ん坊が泣き、母親がそれに四六時中接しないといけない・・・という状況は、お互いにとって苦痛でしかない。環境が赤ん坊を育てるものでもあるので、この環境を赤ん坊に優しい設計に自分で見繕う必要が出てくるだろう。
このことが結果的に、自分に住み良い環境を作るヒントにもなり得る気がする。
植物。植物たち、それを支える土、そして微生物。空気と水、お日様、雲、雨。
自分の描き出す環境の中で、一緒に生きている存在たち。
それらのことを全て把握して、全体としての自分が自在に生き様を描いていく。
身土不二や一物全体は、生きる環境を自分自身でデザインすると当たり前の状態になる。
すると、もっと詳細に自分自身の在り方を把握できるようになる。
自分自身の行動で、その環境がどう変わるのか?
環境が、まるで自分の身体を延長した捉え方になります。
自分(環境と同化した自分)というツールを使いこなすことを最近考えてます(。◕ ∀ ◕。)ノ
もっと自由で輝かしい自分になるために。
※ この記事がお役に立ちましたら、ぜひ皆さんにも広めてください.。.:*・゜
とても参考になります。
自我領域についてばかり問題になっているのが、腑に落ちなくて、自分でも、何やかやと考えても納得行かなかったのですが、あきのさんの書かれている事を読んでいると、「自分のエネルギーが無駄に死ぬ。循環せず・・」と言う閉塞感を感じていたからで、それはきっと、どこかで自分以外のエネルギーも、無駄に死なせてしまっているのだと思うので。
環境について、イキイキしたイメージが浮かんできました。
いつもありがとうございます。
ももっこさん、コメントありがとうです。
自分から出た言葉がきっかけで、誰かが気づきを見出してくれるってイイですね。
この記事からどんな視点が広がっていったのか。
最初の言葉から抜けだして、詠み手が色々と可能性を広げてくれてる。
確かに自分のエネルギーを無駄にしてるということは
自分ではない、他者のエネルギーをも無駄にしてるということかも。
私自身も、改めて学ぶところがありました(‘ ‘*)