健康に生き抜く意志が、祖国に光をもたらす

うちには水場がある。
そのままで生きた水。とてもおいしい。

しかし、隣の畑は農薬をときどき撒いているようなのだ。
そのとき、水場は汚染されてしまう…

 

敷地を陸続きとみなした場合
まさに自分の首を自分で絞めているようなものだ。

分かりやすくは農薬によって。
大きな話で言えば、もはや大惨事の放射能汚染によって・・・
自然に仇なすは、結局は自身の健康を害すのだ

 
そりゃ制御出来んほど大掛かりな生産なんてしたら
土のミネラルバランス崩れて虫とか自然の害が出ますわな。
現代社会、経済主義に合わせて仕事すると、そうなる。自然に合ってないもの。

で、害に対して農薬とな…

 

自然の恩恵で生きてるのに、自然の摂理に反することをする。死の匂いね。
そういった現代社会は呪われており、現代社会の汚染に準じた仕事をする時、自らもまた呪われるわけだ。

農薬を使わないと仕事にならないだって??生きていけないって思い込み。
そもそも根本的な部分で、自分たち大地を蔑ろにしてるではないか!
自分たちの生命線を軽んじてるではないか!!!

 
気づかない…呪いは、弱い部分にじわじわやってくるから。
世の中で言えば、弱い人間。。。子供や赤ん坊、抵抗力の弱った病人となって生まれてくる。健康でなくなった人が増える。

現代社会の常識「例)コメつくるなら農薬マく」によって、自然の生きる本質を分かりづらくさせられてるなら。
教育によって間違った知識を植えこまれるような世界なのなら…傷ついた個々の人間は、どうやって未来を生きれば良いのか!??

 

簡単な話なんだ。
 
子どもたち、個々、一人ひとりが健康に生きることを再優先に考えるようにすればなのだ。
自分の弱った身体を通して苦しみを感じ取れるなら、どうすれば楽になれるか!どうすれば健康になれるか!探ろうとできるんだ。

親や世間の言うことなど意に介さず、周りなんて目もくれなくていい。
そもそも周りが間違ってることを、自分の身体が自覚している。
自分が、自分自身が!病に苦しむ自分自身が!如何にして十全な身体を取り戻すか!
そのことだけを考えて、そこだけに全力を注ぎ込みゃいいんだ。

不自然なことが色々見えてくるように成る。
大人たちはわからないだろう!自分で苦しみを自覚することがないのだから。
苦しみを、間違いを、自覚した人間だけが、そして生きることを諦めていない人間だけが、よりよい正解の道を探ろうと懸命になれる。

 
遠慮なく、自らの正解の道を歩め。
周りを突っ切って十全な健康体を目指し、自分独自に進め!

その先に自らの光が見出だせる。ついで土地を生き返らせるヒントを露わにできる。
ゆくゆくは、まわりの土地に光をもたらすことになる。

 
生き抜く覚悟を持った子個の能力と可能性を舐めてはならぬ。
子供も、病人も、何も出来ないひな鳥のような、か弱い存在ではない。

 
生き抜く覚悟を持て。


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呪われた子

何でもかんでも親がしてあげてると。
子供は死ぬ。

親が子供の食べるものを毎日ぜんぶ用意して
残さず食べなさいね?

 
と、極端な例をあげてみた。
自分で選んで食べることが出来ない。日常。繰り返すうちにそれが当たり前になってしまったら…
勝手に選ばれたモノ…食べきれなかったら、それは誰の責任なのだろう???

 

自分で選んだわけでもない。
言いつけを、出来なかったからといって、誰の責任になる?

良かれと思って世話してる親は、まぁ怒るだろうが///
それが出来ない結果を出されるのは、誰の責任になる? 子供の自分で選んだ結果ですらない。

でも、子は怒られるのを見て自分が悪いと思うだろう。

 
自分が出来ないのが悪い。
与えられたものを消化できないのが悪い。
だから、無理してでも与えられたものを受け入れようとする。

そして、器が壊れる・・・

 
そんな子を、最近まで観てきた。

 
楽だからって…
何でもかんでも親が手出しするのは、マズイんだよ。

 
自分の手で掴もうとせず
ただ与えられたもので生きるだけの人形に成り下がる。
そして、自分の望んだものを自分の手でつかむことを忘れる。

人に依存して生き、自分が思う通りに生きられないのは人のせいだと宣う。

その子は…

 
もはや人間ではない。
ただの人形に成り下がる。

 
嘆かわしい。
嘆かわしい。
嘆かわしい。

 

それは子の人間性を殺しにかかった、無自覚な親の罪であろう。

与えられることでしか生きられない人間は、
どうやったら周りの人間に気に入られるか、力を持った人にどう媚を売るか、を徹底的に覚える。
それは子犬と同じ。愛玩動物と同じだった。

 

私は、そんな人間がこの世に存在するのなんて
思っても居なかった。

人間じゃなくなった存在に、どうして人間として接することが敵おうか…

人としての誇りを忘れてはならない。
自分で掴み取ることを思い出さなくてはならない。


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自分の手で掴んで食べる

自分の手で掴んで食べる。

という生きる基本を学ぶ。
赤ちゃんは本能の赴くままにそれしてた。

何でもかんでも自分でやらなければ気が済まない。
過去の知り合いに、そんな2才児の子がいた。

 
大切なことだと思った。
自分で掴んで食べるから、その行為に責任が持てる。

美味しかったら、それは自分でつかめたモノ。
不味かったら、それは自分で選んだ責任。
失敗したら、上手くいくまで何度でもあらゆる方法でトライする。

そうやって成長していくものだと感じた。
子供だけでなく、大人になった今でも。。。

 
幼少の子が優れてる部分の一つは、此処だと思う。
その子の母親はこんなことを言ってた。

 
「なんでもやりたいって言ってくれるのは嬉しいけれど、かえって仕事が増えるのよね」

 
例えば、卵の殻を割るお手伝い。
そりゃ上手く割れるわけ無いよね、最初。
案の定、手がベタベタ。その手であっちこっち色んなとこ触る。

かえって掃除の手間が..(笑)

 
それ聞いた時、母親たいへんだよなぁって感じた。
でもだからって、何でもかんでも親がやっちゃうと、その子の成長がないんよね。
葛藤ですね。

 
正直、これ。
現代の生活って、ただ生きるだけでハードモードなんだなぁって。
子供の行動見てて思うわけです。

思うように動けないわけですよ。。。
決められたとおりにしか動けない生活に、多くの子たちが

「早く大人になりたい、何でも自分でできるように成りたい」

 
そんなふうに思うわけですね。。。
ただ実際、大人になった私たちは自分の思うとおりに生きていけてるかというと…

疑問ですね〜。

 

だからね。
現代の生活様式に問題があると踏むのですよ。

何でもかんでも自分の思うとおりに生きる。
それを実現する方法は、あるじゃないですか!

自給自足(。0 _ 0。)ノ

 
自分の手で掴んで食べる。
から、自分の手で育てた作物を食べるわけですな。


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本音をさらけ出して全てが始まった

本音は、その人の有り様。

  

今日は子育てに纏わるお話し会があった。 

その大きな女性の先生は、ありのままを話した。

そのものがリアルに、感じたままに表現されていた。

 

良いも悪いもなかった。 

起こった状況、場面を、感じたままに伝えてた。

聞いててリアルに想像できた。母の感情があった。子どもの感情があった。

  

思ったように話した、伝えた、かわいい、うれしい、寝てる時が一番、起きたらてんやわんや、思い通りにいかない、腹立たしい、ふてぶてしい、いうこと聞かない、何度言ったら分かるの? 反省、苛立ち、それでも我が子は可愛い。かわいい。。。

そんな感情の動きを、まるで見てきたかのように話していた。
とても分かりやすい。母と子の一場面が、簡単に想像できた。

 
その語られた言葉からは、はっきりとした輪郭が、存在感が、想いの形が宿ってた。一見ぶつかり合ってるように見えて、思い通りにならないのは「順調よ」って受け入れてた。だから、ありがちな凸凹ドラマに触れられて、面白おかしくも合った。親しみも湧いた。思わず共感する。そんな一面。誰しもがそうやって、思い思いの意志をぶつけ合って、学び合って、大人に成長していくんだねって。

 
子ども言いたい放題、わがまま放題。
それに対して、親も大人も言いたい放題www

でも、そこにはお互いを大切に思う気持ちが存在してる。
そうやって本音のバトルが面白い方向に(。◕ ∀ ◕。)ノ
人間性豊かなエピソードが繰り広げられていきました。
 
 
 

 

さて、自分が子どもの時は、どうだっただろう。と振り返ってみる。
まず、当時から母は、母一人で何もかも背負おうとしていた。子育て、仕事、家事のことで精一杯な状況に映った。祖父母の支えあってこそ生きていけたが、そんな母の大変さを知っていたからか、母には子どもながらに余計な心配をかけないようにしてた。幼いころから、いつ何を尋ねられても「大丈夫、心配ない」と答え続けた。母に対して負担にならない立場をとった。

「あんたは聞き分けの良い子だった。賢い子だった」

 
これが、後で聞いた当時の評価。

まぁ、母は一人で家を支えるためにずっと何かを頑張ってるのを知ってたから、邪魔しちゃいけないと遠慮し出したわけで。お母さんは大変。だからわがまま言っちゃいけない。次第に、普段思ってる感情から、母の負担になる言葉は口に出さないようになった。望まれた通りに見せる。勉強するふりをする。そんな母に対する態度が、そのまま外に対する態度になったように思う。

 

言われたことに対して

「やってる!!!やってます!!!」

で ⇒ やってるふり、頭ン中は別のコト
 
人間らしく、けっこう行動は正直に出るんやな。

 
そういえば、よく言われてた。

「あんたは、言っちゃいけないことを分かってるね。言っちゃいけないことを口にしない。賢いね」

この言葉は、思ったことの全てを伝えられない性格の裏返しでもあったわけだ。ある意味で良い場面もあるかもしれんが、本音の全てを話せない制限は、けっっこう引きずっている。大人になった今、まさにこの部分で躓いている。自分の感じたもの、思ってる言葉が、相手の思惑と「ぶつかる」気配を察知したら引っ込める癖。

・関わらない
・無言を貫く
・遠目に見る
・聞いたふりをする

そうやって、今まで生きてきたな。
意にそぐわない言葉は、記憶に残らず闇の彼方。
年を重ねる毎にひどくなった。何も自分の意に合う状況でなくなってったからか。
本音の殆どが閉ざされた。あるとすればゲームしてた時くらいか。
 

全ての本音は、いつも自分の中でだけ。
自分一人の世界で、思うがままの本心が渦になって、ぐるぐる。
が、いつからかインターネット、今まで外に出せなかったそれらを形にする最良のツールと出会った。

 
サイトは、共感できる人だけ視る。だから有りのままをさらけ出せる。
インターネットの中で、本当の自分を初めて可視化できた。音と言葉。イメージの可視化。ここから、本当の人生が始まったように想う。インターネットの中だけで。自分の名は「あきの」と響かせ。「あきの」の書いた作品が今日に残る。
現実のそれよりしっくりくる名前と、本当の生き様と、作品、足跡を残せる場所を手にした。

 

現実の繋がりでは、本音のすべてを見せられないでいる。誰に対してもぶつかることがない。だから多くの人に受け入れられて頂けてたのかもしれない。広く、浅く。
かといって、踏み込んだ付き合いができてるわけでもなく、人脈も殆ど活かせてない。

 
自分自身「思ったコト」を話すよう心がけてるけれど、誰に対しても、親にも友人にも、仲間にも。師にも、心許せるはずの存在にも、思ったことの問題ないような部分までしか伝えきれておらん気がする。本心、けっこう臆病に引っ込めてる。。そのせいで、たまに違う結果に陥ったりもした。言ってることとやってること違うよねって。そんな状況。

(本音を言えずに流されてたのか! で、当の本人、本意でない結果を目の当たりに、こりゃ駄目だと放置。無責任な結果を産んでたのだ! 人が絡むと、いつも望んだのとは違う状況になって、わけ分かんなくなるな。後始末のほうが大変! だから、自分のことは自分だけでやりたかったのだった。望みのもの、自分一人で卒なく手に入れようと思って。それが一番間違いなくスムーズだと思ってた。しかし、それを色々な社会体制が障壁となって無理難題な現状)

と、どうにも不満足な経緯があって今のこの状況か。
 

振り返ってみれば、自分の弱さは、本音を語りきれない部分にある。
たった一人でも良い、誰かに自分のありのまま、全てを伝えきれたなら…そこから変わっていけるだろうに。
今まで悪い意味での遠慮。相手の負担になっちゃいけない。からなる、伝えきれない言葉が、距離感と燻りを産んでたわけだ。

自分はこう思ってるのに!!!
伝えきれてない、だから望んだものが未だやってこない。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

今日は目の当たりにした。

本音で語る。
今日、話してた先生の言葉は、存在が圧倒だった。
確信を持って話していたからだ。強さがあった。

 

本音で語れる強さが、何十年もの実績で培われていったのだと感じた。
同じ本音を語るにしても、なぜにこうも違うのか?
自分に確信を持てるか否か。なように想った。

 
遠慮。という枠が無く、本音を伝えられる強さは、外のありのままの反応を受け止めきる度量あってこそだ。何とすばらしい存在感なのだろう。

 
きっと本音で語れる最初の存在は家族だった。
親と子の関係から、始まるのだと思った。
または、その代わりになる誰かなのだと思った。

 


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森のようちえん、春の山でお花見

お花見〜
お花見〜

この日は、どんぐりのお話し会で知り合った方に誘われて
森のようちえん主催のお花見会に行ってきました(‘ ‘*)

こちら
http://dazabura.exblog.jp/25490784/
 
 

で、現地到着。
子どもたちたくさんのお母さんお父さん付き添いの、皆で遊んで

わ〜♪ヽ(。◕ v ◕。)ノ~*:・’゚☆

という感じです。

 
此処に生えてる野草食べられるの?
子どもたちはたくさん知ってました。

まずこれ。
スイバ
201604031115000

茎のトコが食べれるんだって。
イタドリのような仄かな酸味が口の中に広がります!
うむ(‘ ‘*)

 
201604031115000
次はカラスノエンドウ
かわいい紫のお花が咲いてる。
優しい味。お花まで食べるの?

 

よもぎ。
よもぎは新芽のトコが柔らかくて美味しいそうだ。

 
たんぽぽの花
花食べるのか!
 

スギナ、つくし。
 

よもぎによく似たセリみたいなのもあった。
形はそっくりだけど、葉っぱの裏の色の差があんまりない。
癖のない味。

 

たくさん食べられる種類あるんだね。

 
野草のお好み焼きと、よもぎ団子を皆で作って食べる!美味い!
あとね、参加者の家族さんからお結びいただいたり、クッキー頂いたりしました。
おむすび〜、家族ごとに特徴があって面白い、どれも手作りの味、美味しい.。.:*・゜
それにちっちゃい子の、たぶんお母さんと一緒に作ったのかな? 手作りクッキー。これが美味いのなんの(‘ ‘*)!

 
雨予報も天気に恵まれ、ご飯のあとは森で遊んだ。
 
 
子どもたち。子どもたち、皆それぞれで違うんね。
甘えん坊の子がいたり、自慢したがりの子がいたり、しっかりした子がいたり、危なっかしい子がいたり、おとなしい子、引っ込み思案な子、反対にまわりに馴染んで遊んでる子など。
子供って一人一人、全然違うんだな〜ってひしひし感じた。ほぇ〜(‘ ‘*)
 

で、ついつい見てなくちゃ危なっかっしい子に付き添ってしまうわけだけど。
他の子供にしてみれば寂しいって思うのかも。あんまし他の子と話せなかったし、うーむ。

 
ま〜、なるだけ大人しく、のんびり遠くから眺めてようかな〜と思ったら
なんと、クッキー焼いてくれた子が走ってきて「新しい遊びがはじまるよ!」誘ってくれた。

心温かな子じゃ(‘ ‘*)

 
ということで、せっかくだし遊びについていってみた。

 
森のブランコ。
ロープ吊るしてしっかりした樹の枝で結んで、乗る。

 
おおおおお!!!
ブランコだ。

 

樹の枝を集めて「家」とか「基地」を作ったり
川でサワガニを捕まえたり、エビとか発見したり。

何かそれぞれ思い思いのことをしてた。
子供って、すごいね。一つ夢中になると、それ以外全く目に入らんくなるだ。

おむすび分けよ〜って言ってた途中に、向こうで面白いことあるよ〜って声がかかると
一目散にそっち行くぞ〜。残されたおむすびは我が独り占めじゃw(‘ ‘*)w

 
で、一人のりようブランコ。
ロープを支える人が要るね、って時
余ったロープをとなりの木にくくりつけようとした子が居た。

これで支える人居なくて済む。

 
おお、アイデアはいいな。
しかしロープの長さが足らんな(o _ o。)

さて、どうするかな???

 
たら、ブランコの高さを犠牲に、隣の幹まで強引に括りつけた。
じゃあ次は…どうやってあんな高いブランコに乗るかな??
大人だったらまだ良し、しかし子供にはかなり高い位置に来た。

すると今度は、樹の枝を積んで足場にした!
足場を作るのは難儀だった。組み方がなってないとすぐ崩れるからな。

1回め失敗して、2回めはけっこう丈夫に組み上がった。

 
「おおお、やるな。上手くブランコ乗れたな」

 

素晴らしい成長ぶりだ(‘ ‘*)

 
たぶん、他の子供達もこうして次々に新しい遊びの中で、
何かに挑戦して、失敗したり工夫したりして、自分なりの答えを見つけていくんだろうなって感じた。
子どもたちの遊んでる様子に、よい刺激を受けました。

 

 
 
が、隣のブランコは、もっと完成度すごかった!

まぁ、次があるさ(。0 _ 0。)ノ


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