オーラを見るということについて
生命は、様々な存在たちがあってそこに生きている。
人、人は自分一人の意志だけでは生きていけなくて、細胞の核、そこに触れる空気、水、植物、土、微生物、という地盤があって、そこに生きていける。
オーラを見るということについて。
オーラはその人自身より、その人の取り巻く環境を感じ取ることで見えてくる。
その人は、どんなものを食べ、どんな部屋に住み、今日はどんな服を来て、どんな人達と関わりあって生きているのか?
一つ一つの事実が、人を取り巻くオーラの全体像を教えてくれる。
その細かい事実の集合体で、その人から醸しだされる雰囲気が、自分にとってどういうものか。
というのが、自分から見たその人のオーラになる。
見た目の色だけじゃない。
香りや音、立ち振舞とか、居る場所とか、そういうのも含まれる。
オーラは、必ずしも見えないものだけじゃなくて、見える部分や香りや雰囲気から自分が感じ取るもの。
わりと現実的なものだと思う。
例えば、真昼間にいつも同じ服を着ている人が居る。
袖が破けてるのを、そのままにしてる。服装は黒っぽい。髪は無造作に伸び放題。
ここから見えてくるオーラ(印象)は、
「なるほどこの人は、会社勤めではない。人に気づかうことをしない性格で。自分の外面にはさほど興味が無いようだ。いつも同じ服着てるからお金がないのか? 袖が破けてるのはみっともない印象だ。」
というものになります。
その人の本質はどうなのか、この時点ではよく分からないけれど。
少なくとも、その人はぱっと見そういう人である(貧乏でろくな仕事してない)だろうと解釈されてしまうわけですね。
そう思われることで、本人は結構損してる部分がある。
これが、オーラが現実に与える影響。
で、このオーラは、見る人によって感じ方が変わる。
会社勤めという概念が一切ない人にとって、まず「ん?」と思うところがひとつ抜ける。
そして、物がない時代の人にとって袖が破けてそのままというのは、別に気に触るものでもない。
「解れてるのを直してくれる人が居ないのかしらねぇ?」という別な印象を与えるかもしれない。
靴はピカピカ。あれ?
その人の表面のオーラを一切無視して、次は目の奥だけを注意深く覗いてみる。
すると、その人がどういった意志を持って生きているのかが、何となく感じられるようになる。
この人は、自分の持ってるお金や時間を、身だしなみに使うべきリソースを、
すべて別なことに使っている。其れ以外のことはどーでもいいと考えている。
他人のこと一切考えてない。世間の風評も一切考えていない。
いったい、この人は何を思って生きているのか。目は一心に何かを見続けている。
それは何だ?
もっと奥の部分まで見ようとすると、次は行動に出る。
単純、それは話してみたら分かる(‘ ‘*)
オーラは、本質を見ようとすればするほど、
表面の細かい部分はどうでもよくなり、もっと芯の部分に焦点が合うようになる。
本質に近づくほど、それが0能力っぽくなる。(霊能力?)
本質の部分は、その人の意志。意志が目に宿り、言葉に宿る。生き様に宿る。
それを構成する、その人を取り巻く環境・・・の残留思念が、その人の意志の方向性を醸し出している。
オーラを見る、
表面の印象をみるのが現物を見る人の思考。
本質を見ようとするのが意志を読み取る0の思考。
両方の視点からその人を判断する。
0は、余計なものをきっちり取っ払って冷静になった時に特化する視点。
より鮮明に、自分にとってありのままの現実(オーラ)が映し出される。
断食や断捨離が流行ったのは、0能力
自分にとってのありのままを知りたいと思う人が増えたからかも。
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