本音をさらけ出して全てが始まった
本音は、その人の有り様。
今日は子育てに纏わるお話し会があった。
その大きな女性の先生は、ありのままを話した。
そのものがリアルに、感じたままに表現されていた。
良いも悪いもなかった。
起こった状況、場面を、感じたままに伝えてた。
聞いててリアルに想像できた。母の感情があった。子どもの感情があった。
思ったように話した、伝えた、かわいい、うれしい、寝てる時が一番、起きたらてんやわんや、思い通りにいかない、腹立たしい、ふてぶてしい、いうこと聞かない、何度言ったら分かるの? 反省、苛立ち、それでも我が子は可愛い。かわいい。。。
そんな感情の動きを、まるで見てきたかのように話していた。
とても分かりやすい。母と子の一場面が、簡単に想像できた。
その語られた言葉からは、はっきりとした輪郭が、存在感が、想いの形が宿ってた。一見ぶつかり合ってるように見えて、思い通りにならないのは「順調よ」って受け入れてた。だから、ありがちな凸凹ドラマに触れられて、面白おかしくも合った。親しみも湧いた。思わず共感する。そんな一面。誰しもがそうやって、思い思いの意志をぶつけ合って、学び合って、大人に成長していくんだねって。
子ども言いたい放題、わがまま放題。
それに対して、親も大人も言いたい放題www
でも、そこにはお互いを大切に思う気持ちが存在してる。
そうやって本音のバトルが面白い方向に(。◕ ∀ ◕。)ノ
人間性豊かなエピソードが繰り広げられていきました。
さて、自分が子どもの時は、どうだっただろう。と振り返ってみる。
まず、当時から母は、母一人で何もかも背負おうとしていた。子育て、仕事、家事のことで精一杯な状況に映った。祖父母の支えあってこそ生きていけたが、そんな母の大変さを知っていたからか、母には子どもながらに余計な心配をかけないようにしてた。幼いころから、いつ何を尋ねられても「大丈夫、心配ない」と答え続けた。母に対して負担にならない立場をとった。
「あんたは聞き分けの良い子だった。賢い子だった」
これが、後で聞いた当時の評価。
まぁ、母は一人で家を支えるためにずっと何かを頑張ってるのを知ってたから、邪魔しちゃいけないと遠慮し出したわけで。お母さんは大変。だからわがまま言っちゃいけない。次第に、普段思ってる感情から、母の負担になる言葉は口に出さないようになった。望まれた通りに見せる。勉強するふりをする。そんな母に対する態度が、そのまま外に対する態度になったように思う。
言われたことに対して
「やってる!!!やってます!!!」
で ⇒ やってるふり、頭ン中は別のコト
人間らしく、けっこう行動は正直に出るんやな。
そういえば、よく言われてた。
「あんたは、言っちゃいけないことを分かってるね。言っちゃいけないことを口にしない。賢いね」
この言葉は、思ったことの全てを伝えられない性格の裏返しでもあったわけだ。ある意味で良い場面もあるかもしれんが、本音の全てを話せない制限は、けっっこう引きずっている。大人になった今、まさにこの部分で躓いている。自分の感じたもの、思ってる言葉が、相手の思惑と「ぶつかる」気配を察知したら引っ込める癖。
・関わらない
・無言を貫く
・遠目に見る
・聞いたふりをする
そうやって、今まで生きてきたな。
意にそぐわない言葉は、記憶に残らず闇の彼方。
年を重ねる毎にひどくなった。何も自分の意に合う状況でなくなってったからか。
本音の殆どが閉ざされた。あるとすればゲームしてた時くらいか。
全ての本音は、いつも自分の中でだけ。
自分一人の世界で、思うがままの本心が渦になって、ぐるぐる。
が、いつからかインターネット、今まで外に出せなかったそれらを形にする最良のツールと出会った。
サイトは、共感できる人だけ視る。だから有りのままをさらけ出せる。
インターネットの中で、本当の自分を初めて可視化できた。音と言葉。イメージの可視化。ここから、本当の人生が始まったように想う。インターネットの中だけで。自分の名は「あきの」と響かせ。「あきの」の書いた作品が今日に残る。
現実のそれよりしっくりくる名前と、本当の生き様と、作品、足跡を残せる場所を手にした。
現実の繋がりでは、本音のすべてを見せられないでいる。誰に対してもぶつかることがない。だから多くの人に受け入れられて頂けてたのかもしれない。広く、浅く。
かといって、踏み込んだ付き合いができてるわけでもなく、人脈も殆ど活かせてない。
自分自身「思ったコト」を話すよう心がけてるけれど、誰に対しても、親にも友人にも、仲間にも。師にも、心許せるはずの存在にも、思ったことの問題ないような部分までしか伝えきれておらん気がする。本心、けっこう臆病に引っ込めてる。。そのせいで、たまに違う結果に陥ったりもした。言ってることとやってること違うよねって。そんな状況。
(本音を言えずに流されてたのか! で、当の本人、本意でない結果を目の当たりに、こりゃ駄目だと放置。無責任な結果を産んでたのだ! 人が絡むと、いつも望んだのとは違う状況になって、わけ分かんなくなるな。後始末のほうが大変! だから、自分のことは自分だけでやりたかったのだった。望みのもの、自分一人で卒なく手に入れようと思って。それが一番間違いなくスムーズだと思ってた。しかし、それを色々な社会体制が障壁となって無理難題な現状)
と、どうにも不満足な経緯があって今のこの状況か。
振り返ってみれば、自分の弱さは、本音を語りきれない部分にある。
たった一人でも良い、誰かに自分のありのまま、全てを伝えきれたなら…そこから変わっていけるだろうに。
今まで悪い意味での遠慮。相手の負担になっちゃいけない。からなる、伝えきれない言葉が、距離感と燻りを産んでたわけだ。
自分はこう思ってるのに!!!
伝えきれてない、だから望んだものが未だやってこない。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
今日は目の当たりにした。
本音で語る。
今日、話してた先生の言葉は、存在が圧倒だった。
確信を持って話していたからだ。強さがあった。
本音で語れる強さが、何十年もの実績で培われていったのだと感じた。
同じ本音を語るにしても、なぜにこうも違うのか?
自分に確信を持てるか否か。なように想った。
遠慮。という枠が無く、本音を伝えられる強さは、外のありのままの反応を受け止めきる度量あってこそだ。何とすばらしい存在感なのだろう。
きっと本音で語れる最初の存在は家族だった。
親と子の関係から、始まるのだと思った。
または、その代わりになる誰かなのだと思った。
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