善悪の知識の実

別名「アダムの林檎」

聖書では、善悪の知識の実を食べることによって楽園から追放されたとあります。
なぜ、善悪の識別を得ることが追放につながったのでしょう。

 

私は自分の体験談で、このように思うことがありました。

私にとってサプリは悪。必要ないもの。

 
けれども、ある特定のグループにおいては

サプリは救いであり、必要あるものでした。

 
過去の記事 ⇒ サプリメントの必要性は?

 
 
物事は二面性を持っていて、視点の違いによってその両方になりえます。
もとより、自然界や宇宙は善悪の識別を持ち合わせてません。
ただ因果応報がそこにあるだけです。

善悪とは、視点を固定化したときの一方的な判断基準でしかありません。

 
他に例を挙げてみます。

盗みは悪だ

善悪の識別を持った段階で、そのような風習を人社会にはびこらせます。
確かに盗みはよくない。これによって、盗みを働いた悪人は罰せられても仕方ない!
という世論が出来上がります。そして悪人を捕まえて裁くことを善と考えるようになります。

これが、善悪の知恵の実がもたらす結果であったと推測できる。

 
しかしこういった絶対的な判断基準は、その者がなぜ盗みを働いたか?
なぜ盗みを働かざるをえなかったか?というトコまでは、見えなくします。

もっと具体的な例を挙げれば
 

楽園を追放された後の農耕時代、とある家族が住んでいた。
一人の子供が悪事を犯した。親が、その子に裁きを下した。
 
その罰した内容が
 
「家族と故郷からの永遠の追放(家なし宿なし文なし)と
 農耕技術の剥奪(畑から食べ物を育てられない)」
 
この2つだとします。
その子供は、この先どうやって生きていけばいいのか。
故郷からの追放、お金もない、全く知らない未開の地、食べられるものが何もない。
そして自分で食べ物を育てることも出来ない。
 
ならば、どうするか。
他から奪うしかなくなるのだ。
 
後に彼は、鍛冶師となって鉄の槍などの武器を生み出し
略奪や狩りをして生き永らえた。

 

という一例。

この場合、何が悪なのか?を見るより
悪事を働かざるを得なくなった原因は何処にあるのか?のほうが重要であると思われます。

この時、表面的に善悪の判断基準を持って裁いたがために、
罰されたものはますます悪に手を染め上げなければならなくなった。

 

善悪の判断基準は、視点が固定化されたもの。
周りの状況や、その因果関係を見えなくさせるのでしょう。

人は、最初から悪事を働こうと思って生まれてこない。
必ず何かに必要とされて生まれてくるし、
生を与えられた段階からその役目を果たそうとする。

しかし、その者が思わしくない行動を取る時
どこかでその純粋さが曲げられたのだ。と考えます。

 
善悪の知恵の実は、善い物でも悪い物でもないでしょう。

問題はそれによってもたらされた善悪の基準が、
それを食べた人の視点のみに固定化され、それらに皆が強制させられたこと。

= この時、あらゆる視点を持つ自然や宇宙から人々が分断された

 

自然や宇宙の摂理から遠ざかり
それらとは繋がりを絶たれた人々が決めた
善悪のルールに縛られた社会。

その延長線上に、今。

 

 

もちろん、これは私が見た物事の一面性なので
絶対正解とかありません。

ただ、ここから僅かでも学んだことで

 
批判や反対運動は、それに取って代わる者が交代するだけ。
不毛な行いかもしれない。という考えに変化していきました。
そこに善悪の判断基準が無くなっていないから。

 

原発は目先の経済から見れば善であったし
TPPもホンの目先の経済から見れば善であった。
大多数にとって、ありえない取り組みですけどね。

 
それよりも、私たちが繋がりを取り戻すことができれば。
因果応報を自分たちで感じることが出来たならば、何も問題なくなる。

たぶんこんなふうに、
ただ目の前に存在してるモノたちがどれだけ偉大なのか
その価値に気づくだけで違うと思うのです。

大豆イソフラボンの効果から学ぶ
 
 

誰かの教えや価値基準から、自分の思考を解き放つ。

私たちは、地球上に住んでるから。
私たち一人一人の生き方が地上に何をもたらし、どのように自分に返ってきてるかを感じ取ることができれば
少しずつでも、私たちの望む方向に進んでいけるだろうと思いました。

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