望みのものは目の前にある

望みのものは目の前に在る。
今の世の中、その形が違って視えるだけ。

 
「都会」という枠組みの中でも
望みのもの__土地。はあるんだ。

それが表面上は、道路であったりアスファルト…と形が変わって存在してるだけ。
土地のもつ本質「様々な生命を宿したい」は、ずっとずっと根底に在って、変わらない。

 
エネルギー(物質の元素)の目線で見れば分かる。
原子配列や分子構造が変わろうとも、世界全体の質量は変わらない。

土地が「様々な生命を宿したい」と、空気中のエネルギー(物質の元素)を組み換え、まず雑草を生やそうとする。
その生命力が、都会の枠組み「動くな、平坦な道で居ろ!」の干渉を受けて、死体で固めあげられてるだけ。

でも、都会で生きてる者達だって土地の「食べ物」がないと生きていけないわけだから
抑えこんで奪った生命力のエネルギーを、別の形に変換して、販売してるんだ。

園芸用の土。プランター。

 
あれは、もともと土地にあった生命力が、別の形になったものだ。
そして、中身が無い。栄養がない、微生物や虫も見えない、歴史がない、すっからかんの状態になってる。

…つまりそのままで育てるのは難しくて。

土地の持ってた生命力の本質は、これまた何処からか奪ってきた「肥料」だったり「腐葉土」だったりと形を変えて販売されてる。

…望みのものは、確かに形を変えて目の前に存在している。
しかし、しかし、「分かりづらい」ではないか…

 

なぜそのままの形でないのか?
それが都会の仕組みだからだ。科学という考え方で動いてるからだ。
 
科学は、1つのものを細分化して定義づけることで、細かい部分まで突き詰めていく学問。
でも実態は、細分化すればするほどさらに小さな枠組みに囚われるようになり、生命⇒分子⇒原子⇒中性子・電子⇒…どんなに細分化しても定義の終りが見えない。…細分化すればするほど、物事の本質(元々の生命の有り様)を見失いやすくなる欠点を秘める。

 
それとおんなじ。

今の都会は科学で創られているから、物質のエネルギー(元素)が細分化され、本質を分かりづらくする地場が組まれてるんだ。

 
人は、望む。
元々の自然では、望んだものはシンプルに手に入るよう出来ていた。
けれども都会では、望んだものが分かりやすい形で現れてこない。

食べ物が欲しい時、
自然では、食べ物のなる樹を探すか、食べられるハーブを探せばいい。自然の理を知れば、たやすく見つけられる。
しかし都会では、食べ物を欲しても、そのままの形で得られないのだ。。。「お金」を稼がなければ…

 

都会において、全ての物質エネルギーは細分化されてると言っていい。
で、細分化したエネルギーは、殆どが「お金」を通して交換できるようになっている。

望みのものを都会で得るには、まぁ一般的には
・お金を稼ぐ手段と、
・細分化されたエネルギーを見極める手段。
・それらを正しく組み上げる正解の手順。

 
3つ。

こんなにも段階を踏まねばならないのだ。

 
もともとシンプルに叶えられた願いが
まるで気まぐれなゲームに付き合わされてる気分だ。。。
 

こんなに難しい世の中だから、人はよく努力の方向性を間違えて、願いが叶わなくて、悲観にくれたりした。

でも、望みが叶えられないからとふてくされる必要はない。滅入る必要はない。
よく視るんだ。望みのものは、形を変えて目の前に在る。それを知るだけでいい。
都会の枠組みは、所詮「自然」の土台が在ってこそ。薄っぺらい壁で区切られた幻のようなもの。

 
「見せかけ・思い込み」という壁を取り払った所に、より分かりやすい真実の形が視える。
目の前のものが、元々何で在ったかを思い出すのだ。何を願って存在したかを思い出すんだ。
それを知るだけでいい。望みのものを見つけられるはずだ。

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