縄文人はなぜ遺物を残さなかったか

縄文の人がこの世を去る時、遺物も一緒に自然に還していた。遺跡の土器もだいたい粉々。
その理由、これまたエネルギー(物質の元素)の視点で見ると分かると思う。

自分の都合で築いた構築物は、子どもたちにとって不要だから。
作品でも、コレクションでも、便利な道具でも、それが自然から切り取って作られたものなら尚更。
どんなに自分には価値のあるものであっても、子どもたちには多くが不要なものに映る。

情報の詰まった叡智、永遠に必要とされる真理を宿したモノ…も中にはある。
しかしそれ以外の芸術品や想い出の品などが先代の遺物として残っては、全体のノイズにしか成らないのだ。
世界全体のエネルギー(物質元素)の質量は変わらないなら
異物が残っている分だけ、自然界からロスが出ている状態。子どもたちの世界が狭まってしまうわけ。

だから先人たちは、この世を去る際に自らの遺物をも自然に還すことの大事さを知っていた。銅像や墓標なんて無かった。
全てが役目を終えたとき自然界に帰すから、自然界は永遠性を保ちながら、その時、その時に合った形を自由に保っていられたんだ。

はるか土の下。記憶の層の中に、活きた記録は永遠に残り続ける。
形として残さずとも、それで十分だったんだ。

 

そのことを忘れ去った私たち、その頃の先人たちの感性を、再び学ぶ必要があるんじゃないか?って想う。
実際、遺物だらけになってしまった世界において、子どもたちは多くのモノや親世代のしがらみに囚われて、思うように動けなくなっていた。

棲む家は自分で築くもの
資本主義の落とし穴
 
 

遺物を自然に帰すことの大切さ。
根拠があるとすれば、こういった例から汲み取れるんじゃないかな。

 
 
 

本当に子どもたちを想って生きるならば
自分の手元にあるもの、できるかぎり自然に還すことができるもので生活すること。
どうしても自然に返すことが出来ない工業製品…
自分たちの手に負えないモノに関しては、極力身の周りに置かないこと。

少しの心がけで、私たち家族は、未来永劫もっと暮らしやすくなるように想う。


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天然ガスは家庭で作れる?

アナスタシア第4巻、34ページより

「だから言っているじゃない。ガスは食べ物を消化する際に体の中でできるの」

。。。

 
この1文、とんでもない可能性を秘めてるよな。
(オナラに火がつくのは、実験データにも残ってるようだ)

 
で、つまり。
人の腸内の中で、食べ物が昇華されるプロセスを「瓶」に再現できれば
天然のガスは、自給できるというわけだ。すごいよな(‘ ‘*)

 

手元の発酵瓶をちらっと目にやる(。0 _ 0。)ノ
米のとぎ汁乳酸菌

発酵ガスが、すごいんだよな。コレ。(冬場より夏場はもっと凄いよ)
新鮮な玄米量を多くすればするほど、黒糖と天然塩を入れて数日。
もう、蓋を開けた瞬間に中身が飛び出るほどだ!!!

火は着くんかな?このガス。

 
火着いたら、火力エネルギーも自給できるというわけだね。

いやー、火は着くんかな〜〜〜????
ほらほら誰か、一緒に実験しましょ。


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望みのものは目の前にある

望みのものは目の前に在る。
今の世の中、その形が違って視えるだけ。

 
「都会」という枠組みの中でも
望みのもの__土地。はあるんだ。

それが表面上は、道路であったりアスファルト…と形が変わって存在してるだけ。
土地のもつ本質「様々な生命を宿したい」は、ずっとずっと根底に在って、変わらない。

 
エネルギー(物質の元素)の目線で見れば分かる。
原子配列や分子構造が変わろうとも、世界全体の質量は変わらない。

土地が「様々な生命を宿したい」と、空気中のエネルギー(物質の元素)を組み換え、まず雑草を生やそうとする。
その生命力が、都会の枠組み「動くな、平坦な道で居ろ!」の干渉を受けて、死体で固めあげられてるだけ。

でも、都会で生きてる者達だって土地の「食べ物」がないと生きていけないわけだから
抑えこんで奪った生命力のエネルギーを、別の形に変換して、販売してるんだ。

園芸用の土。プランター。

 
あれは、もともと土地にあった生命力が、別の形になったものだ。
そして、中身が無い。栄養がない、微生物や虫も見えない、歴史がない、すっからかんの状態になってる。

…つまりそのままで育てるのは難しくて。

土地の持ってた生命力の本質は、これまた何処からか奪ってきた「肥料」だったり「腐葉土」だったりと形を変えて販売されてる。

…望みのものは、確かに形を変えて目の前に存在している。
しかし、しかし、「分かりづらい」ではないか…

 

なぜそのままの形でないのか?
それが都会の仕組みだからだ。科学という考え方で動いてるからだ。
 
科学は、1つのものを細分化して定義づけることで、細かい部分まで突き詰めていく学問。
でも実態は、細分化すればするほどさらに小さな枠組みに囚われるようになり、生命⇒分子⇒原子⇒中性子・電子⇒…どんなに細分化しても定義の終りが見えない。…細分化すればするほど、物事の本質(元々の生命の有り様)を見失いやすくなる欠点を秘める。

 
それとおんなじ。

今の都会は科学で創られているから、物質のエネルギー(元素)が細分化され、本質を分かりづらくする地場が組まれてるんだ。

 
人は、望む。
元々の自然では、望んだものはシンプルに手に入るよう出来ていた。
けれども都会では、望んだものが分かりやすい形で現れてこない。

食べ物が欲しい時、
自然では、食べ物のなる樹を探すか、食べられるハーブを探せばいい。自然の理を知れば、たやすく見つけられる。
しかし都会では、食べ物を欲しても、そのままの形で得られないのだ。。。「お金」を稼がなければ…

 

都会において、全ての物質エネルギーは細分化されてると言っていい。
で、細分化したエネルギーは、殆どが「お金」を通して交換できるようになっている。

望みのものを都会で得るには、まぁ一般的には
・お金を稼ぐ手段と、
・細分化されたエネルギーを見極める手段。
・それらを正しく組み上げる正解の手順。

 
3つ。

こんなにも段階を踏まねばならないのだ。

 
もともとシンプルに叶えられた願いが
まるで気まぐれなゲームに付き合わされてる気分だ。。。
 

こんなに難しい世の中だから、人はよく努力の方向性を間違えて、願いが叶わなくて、悲観にくれたりした。

でも、望みが叶えられないからとふてくされる必要はない。滅入る必要はない。
よく視るんだ。望みのものは、形を変えて目の前に在る。それを知るだけでいい。
都会の枠組みは、所詮「自然」の土台が在ってこそ。薄っぺらい壁で区切られた幻のようなもの。

 
「見せかけ・思い込み」という壁を取り払った所に、より分かりやすい真実の形が視える。
目の前のものが、元々何で在ったかを思い出すのだ。何を願って存在したかを思い出すんだ。
それを知るだけでいい。望みのものを見つけられるはずだ。


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