心が幸せだと真に感じているなら
自信を持って、自らの正しさの元に歩んでいける。
逆に幸せを感じていなければ、自分の思う「正しさ」の何処かに改善点が在る。
私自身は今、幸せか?
そうとも言えるし、未だまだ不十分だともいえる。
自分の目標に向かって、思いっきり進んでいける日々は充実そのもの。
積み重ね、着実に実現へと向かっている日々に、それなりの幸せを感じている。
一方で、不十分と言えることは。
理想を未だまだ実現できる手立てが及んでないこと。
言っても未だ途中経過であり、実践できないうちは100%の幸せを感じるなんて難しいと、決めつけていること。
実現まで、少し時間がかかるんだ。
その間に、私は…
満足できる暮らしを、しないことを選択してしまってる。。。
私にとっての満足な暮らしとは…
「芸術に生き、人…自然に愛情を注ぐ暮らし」
今の私は、できてるだろうか…?
今、仕事しなければいけない、稼がねばならない。
そういう言い訳をして、日々の幸せを軽んじているのではないか?
菜園の方は、順調か? 少しずつだ。
ここ1年。存分に作物を育めば、これからも現実味は増すだろう!
趣味の芸術方面はどうか? 過去、仕事に没頭しだしてから進んでいない。
時間は確保できる。作品を描きたい。やらない理由はない。なのに、気分が乗らないとかの理由で…そうだ、結局は気分に動かされてしまってるんだ。
物語は、書き進んでいると思う。そして本は、読む、今まで見なかった世界を目の当たりにしながら、途中で考える時間を設ける。だが文章にしては、まだまだ覚束ない。
…どうにも、偏りがあるようだ。
私は目標に向かって歩んでる。そこは肯定できる
ただ、日々の喜びはあるか? 日々の糧に喜びを見出だせてるか?
…淡々としている。
まるで労働者のように。淡々と仕事をこなすのみに終わってる。
。。。
もしかしたら此処でバランスをとるように、休息の間…喜びを日常の中で見出せれば
人や生き物を愛したり、芸術を育んだり、もっと自分の今を充実させることにも視野を向ければ
全てが上手くいくのかもしれない。
今、幸せか?
まだ半分。未だ不十分。50%…
私は未だ、自分の人生を100%発揮できてない。仕事を言い訳に逃げてるだけだ。そーじゃないんだ。
なりふり構わず、遠慮せず、もっともっと人生の喜びを体現すれば、全て上手くいくビジョンを見た!
自分はもちろん、関わる人、場所、物事の全てが!
全てが。
確信に近づいている。
今100%、存分に生き抜く。
この場所で、思考を超えて、現実で、
幸せに満ちた人生を描き出してみせる。
- コメントする
- 人間関係, 日常のこと
- 2016年02月20日
誰しも、目指してる場所があると思う。
安心して生きられる場所、人生を思う存分に謳歌できる環境。
でも、どうやってそこにたどり着けばいいだろう?
今、人生を思い通りに生きていない私たちにとって、答えを見つけるのは至難の業だ。
望めば叶う。
これは真実である。
そして私は、かつてその望みを叶えようとした。
結果、学べたことがあった。
⇒ 望みを叶えるためには?
望みに、矛盾を孕んでいるうちは実現し得ないということだ。
今此処に、望んだ生き方を実践できないのは理由があったのだ。
それは、未だまだクリアにすべき、解明スべき矛盾点が存在するということ。
土地の問題しかり。
自分に関わる家族の問題しかり。
どうにも矛盾の孕む中で、しかしお互いの真実が明らかになる時
一筋の光明が視えてくるものだろう。
しっかりと向き合うんだ。
向きあえばこそ、お互いに共通する到達地点が視えてくる。
私たちの目指す場所が視えてくる。
矛盾とは許容しがたいものだが。
だからこそ、今の私に改善点が見いだせるわけだ。
理想を実現するために。
私は未だまだ学ばねばならん。
土地には、先祖代々の生命たちの痕跡が埋まっている。
落ち葉や昔々の生き物たち、先祖のお骨が埋まっている。
土地が自分自身の一部になるとき。
土地の想念全てが、「私」の親となり友となりうる。
「私」が、先代たちの魂を引き継ぐからだ。
親から子に遺産が相続される。
だが、様々な理由で相続できない、或いは相続がなされない。
というのは、哀しいことかもだけれど、血の繋がった親と子の関係であれ、縁の大部分は薄れてしまうんだ。
代わりにその子が別の土地とつながりを持つ時、その場所が、真の繋がりのある親として迎えてくれる。
お嫁に行くって、このような感じだよね。。
お婿に行くのも、このような感じだよね。。
私たちの根付く土地が、親。
土地が子に、日々の糧を実らせて養ってくれるのだから。
よく考えたら自然なことなのです。
子どもが居なくなった親は哀しいのです。
だから迎え入れたい。出来れば、血の繋がった子に帰ってきて欲しい。
けれども願い叶わぬのなら、「私」がその想いを引き継ぐのです。
先代たちの想いと、何よりも自分自身の為に。
もう誰も使わない家。土地。。。
どうして、見捨てられてしまったのだろう。
どうして子どもたちは、出て行かねばならなかった?
ところで私の母は、マンションが欲しいと言ってました。
夢はマンションを買うことだと。。私が居なくなったらあなた使っていいのよ?
そんなふうに言ってました。
で、うちにゃ必要ないんだよな、それ。
寧ろ邪魔なだけ。マンションなんぞ相続放棄したいくらいだ。
あれは維持費の負債にしかならん。老朽化が進む一方。
いずれ朽ち果てるものだ。それに想い出も何もない。
母の思いは
「帰る家がいつでもあるように。万全に」
だとは思うのだけど、自分都合で勝手にセッティングしてるだけ。
子供が何を考えているか、何を必要としているかなんて見ようともしない。
自分都合で何でも揃えようとしてるだけ。邪魔なものばかりを。。。
頑張っても報われんな。寧ろ何もしてくれんほうが良いな。。
つまり今の親はおバカちゃんなので、遺産は見捨てられる結果になりますよと。そういうことでした。
自業自得。子どもの立場からしてみれば、やるせない思いです。
まぁ現状このままで行った場合の、仮定未来の話になります。
さて、考えてみると。
自分の場合と、昔からあるお家では訳が違ってくるのを感じます(o _ o。)
あの空き家は、昔からあるお家、両親と一緒に過ごした想い出があるはずです。
遠くに行ってしまって、もう使わなくなったとしても、
想い出を捨てたくないのかもしれません。
心ない人の手に渡ってほしくないのかもしれません。
十分にお金は残されてて、維持するくらい何のこと無いのかもしれません。
それとも、またいつか帰ってくる予定があるのでしょうか…
万一にも、仕方なく相続して放置する他なかった?
子どもたちは県外に赴いて、県外に拠点を構えて、
後にここに居たご両親は亡くなってしまって、
家と土地だけが残されて、日に日に想い出が色褪せていく、ここは空き家。
子どもたちが帰ってくる理由…なくなってしまっている。
木々が、哀しそうに佇んでいます。
私は物思いにふけます。
まだご両親がご健在だった頃、どのような想いで此処に暮らしてたのかを、
お庭のセンスは抜群に良いです。きっと、昔ながらの庭園を大切にされてた方なんだと思います。
しかし、家の建ち方は窮屈そうでした。元々あった家を増築したのかな?
何というか、住む人のこと、帰ってくる人のことを考えてないような…
かつての設計は人任せにされたのでしょうか…
間取りはこうスべきだと、当時の常識に縛られてしまったのでしょうか?
入り口から玄関がとても窮屈です。
入りづらい雰囲気を醸しだしてます。
もしかしたら、身内から外に対して一線引かざるを得ないような
家柄に印象付けられていたのだろうか…(‘ ‘*)?
人が出入りしづらい、入り口から玄関にかけての閉鎖感に何となく。
今は、伸びすぎた木々の枝たちがたくさん、入口付近に打ち捨てられています。
まるで誰も入ってくるなと仰ってるように。
此処は空き家だが、入ってくるなと主張せんばかりに。
なのに連日、何かしらゴミが捨てられている。。。
矛盾です(o _ o。)
この土地は哀しんでる。
でもその感情の裏側には、もっと純粋な願いが宿っていたのだと想います。
私は、この庭の作りが好き。とても風情が在る。
松の木も立派。今は哀しそうだけど、きっと蘇る。
それは何のためにある?
土地に残された植物たちに尋ねる。
何を想ってこの土地を残したの?
どこかに行ってしまった先代のことを考える。
私は知らない。
これから知っていきたい。
以前、こんな記事を書きました。
私の考える理想の共同生活。
⇒ 自立×自立 発展のアイデア
過去、婚約者居ましたが、結婚間近になってハイ待った(。0 _ 0。)ノとなった。結果お別れ。
何でも、何かにつけて責任が生ずるとか何とか。
一々身の振り考えるのも、相談しろとかイヤイヤ。
全部がキミに相談できる案件じゃないんだよ…特に仕事面に関してほらほら。
この時、世間のご家庭において、個人個人が思うように動けない理由が分かりました。
おまいら、家族に対する責任で雁字搦めになっとるやないけ?!
いやー、どんな時も優先スべきは自分自身、個人ですわ。
一人一人が自分優先で動くから、一人一人に思う生き方が実現できる。
その一人一人が帰る場所として、家庭があり家族が在る。そんな感覚(‘ ‘*)
お互いに大切だからこそ、家族に対して遠慮は要らない。
いちいち遠慮してちゃ、個人個人が活かせんのよな。
これも過去の記事で書いた
⇒ http://goldenflower.jp/blog/2407
⇒ http://goldenflower.jp/blog/2919
ということで。
その結婚ハイ待った(‘ ‘*)!
ってなるのも当然の理由だ。
自分の思うような人生を生きてないうちはダメだ。
自分の思うような人生歩めてないのは自分自身のせいだ。
それを相手の責任にしてちゃ疲弊しかねない。お互いに。
心配する必要だって無い。
心配したって、まるで見当違いな事が多い。
核心的な部分を理解せずして、助言などあり得ない。
他人を気にかけるより自分で出来ること沢山あるだろ…
自分の行動次第で、相手の欠点はカバーできるものだろ?
家族同士の余計な心配とは、全員一人一人の未熟さの現れ。
力になりたいのに何も出来ません、理解できません、と子供のように拗ねてるだけ…
いや相手の形振りは相手自身に任せておけばいいんだよ。それが自然だろ。
寧ろ心配されても、心配すんなコレが俺のやり方だとなだめるのに手間どるだけ。
こちら未熟なうちは、無碍に突き放すしかなくなるわけだ。
最初は理解に努めて見守るのみ。それが当人にとって最善な選択になることも多い。
俺だって優先スべきことがたくさんあるんだ。
集中させてくれよ、集中させろよな(o _ o。)
せめて、俺の思う自分の人生を生きれてからだな。
自分の人生を目の前に100%実現できてりゃ、相手も全面的に信頼するだろうしな。
信頼して付いてきてくれるなら、喜んで養うしな。
だが信頼できん部分があるなら、そこは未だ関わらない方がいい。
俺は未だ未だ自分の人生100%生きれてない。
それまでは解き放てよ。好きなように生きるのに全力だよ。
成し遂げたいこと、本物の人生を歩むのに全力だよ。応援してくれるよな?
お互いそうだよな。そうすりゃ一緒になる時、お互いの個性が活きるようになる。
素晴らしい未来が開ける予兆じゃ(。0 _ 0。)ノ
- コメントする
- 人間関係, 子育て
- 2016年02月07日