もう誰も使わない家。土地。。。
どうして、見捨てられてしまったのだろう。
どうして子どもたちは、出て行かねばならなかった?
ところで私の母は、マンションが欲しいと言ってました。
夢はマンションを買うことだと。。私が居なくなったらあなた使っていいのよ?
そんなふうに言ってました。
で、うちにゃ必要ないんだよな、それ。
寧ろ邪魔なだけ。マンションなんぞ相続放棄したいくらいだ。
あれは維持費の負債にしかならん。老朽化が進む一方。
いずれ朽ち果てるものだ。それに想い出も何もない。
母の思いは
「帰る家がいつでもあるように。万全に」
だとは思うのだけど、自分都合で勝手にセッティングしてるだけ。
子供が何を考えているか、何を必要としているかなんて見ようともしない。
自分都合で何でも揃えようとしてるだけ。邪魔なものばかりを。。。
頑張っても報われんな。寧ろ何もしてくれんほうが良いな。。
つまり今の親はおバカちゃんなので、遺産は見捨てられる結果になりますよと。そういうことでした。
自業自得。子どもの立場からしてみれば、やるせない思いです。
まぁ現状このままで行った場合の、仮定未来の話になります。
さて、考えてみると。
自分の場合と、昔からあるお家では訳が違ってくるのを感じます(o _ o。)
あの空き家は、昔からあるお家、両親と一緒に過ごした想い出があるはずです。
遠くに行ってしまって、もう使わなくなったとしても、
想い出を捨てたくないのかもしれません。
心ない人の手に渡ってほしくないのかもしれません。
十分にお金は残されてて、維持するくらい何のこと無いのかもしれません。
それとも、またいつか帰ってくる予定があるのでしょうか…
万一にも、仕方なく相続して放置する他なかった?
子どもたちは県外に赴いて、県外に拠点を構えて、
後にここに居たご両親は亡くなってしまって、
家と土地だけが残されて、日に日に想い出が色褪せていく、ここは空き家。
子どもたちが帰ってくる理由…なくなってしまっている。
木々が、哀しそうに佇んでいます。
私は物思いにふけます。
まだご両親がご健在だった頃、どのような想いで此処に暮らしてたのかを、
お庭のセンスは抜群に良いです。きっと、昔ながらの庭園を大切にされてた方なんだと思います。
しかし、家の建ち方は窮屈そうでした。元々あった家を増築したのかな?
何というか、住む人のこと、帰ってくる人のことを考えてないような…
かつての設計は人任せにされたのでしょうか…
間取りはこうスべきだと、当時の常識に縛られてしまったのでしょうか?
入り口から玄関がとても窮屈です。
入りづらい雰囲気を醸しだしてます。
もしかしたら、身内から外に対して一線引かざるを得ないような
家柄に印象付けられていたのだろうか…(‘ ‘*)?
人が出入りしづらい、入り口から玄関にかけての閉鎖感に何となく。
今は、伸びすぎた木々の枝たちがたくさん、入口付近に打ち捨てられています。
まるで誰も入ってくるなと仰ってるように。
此処は空き家だが、入ってくるなと主張せんばかりに。
なのに連日、何かしらゴミが捨てられている。。。
矛盾です(o _ o。)
この土地は哀しんでる。
でもその感情の裏側には、もっと純粋な願いが宿っていたのだと想います。
私は、この庭の作りが好き。とても風情が在る。
松の木も立派。今は哀しそうだけど、きっと蘇る。
それは何のためにある?
土地に残された植物たちに尋ねる。
何を想ってこの土地を残したの?
どこかに行ってしまった先代のことを考える。
私は知らない。
これから知っていきたい。
太陽と水を使う。
快適な温度になる調節器。
水は、うまく扱うことで太陽の光を屈折させて、光を集めることが出来る。
区画内にある広範囲の太陽光を一箇所に集め、水に熱エネルギーを保存させておくんだ。
昼は温度を水に宿らせて、夜はその熱エネルギーを自ら取り出す。
まるで太陽光発電みたいだなと思った。
同じことは、樹でできる。
樹は、光合成で水蒸気を発生させるが
小さな水の粒子が、幾重にもわたって空間に拡散する。
その水に、太陽のエネルギーは保存される。
夜、その水から太陽の記憶が取り出される。
温かい。樹がその役目を感じさせてくれる。
ふむ(‘ ‘*)
まとまったお金が必要と思ったら、必ずしもそうじゃなかった。
必要なモノは…土地の視点で物事を視る力だった。
土地は元々そこにある。空いていれば使っていい。
国も法律もない、真っ更なセカイであるならば…。
今は、主の居ない土地にも、いずれか所有者が定められる。
所有者は土地に対し、何らかの権利を持っている。
けれど、その権利を維持するために、税金を必要とする。
どうしてなのだろう?
どうして、ただ土地を所有しているというだけで
使ってないのに何かを持っていかれなければいけないのだろう。
逆もしかり、もはや誰も使っていない空き地なのに
どうして土地の所有権がはっきりしないせいで、誰もその場所を使えないのだろう。
土地に値段はない。これが自然の視点。
では、なぜ値段のないものが、一般に手を出せんほどに高額なのか?
この視点。
パズルだ。
土地を買うでなく、まずは土地をお借りする…が今は現実的だね。
と、話し合う内にそんな言葉が出る。
そうか、まとまったお金10,000,000円〜単位で視るんじゃない。
月-10万円…という視点だ。
あなたが何もしなければ、毎月10万円分のエネルギーが欠けてゆく
だから不調和であると見ればいいわけだ。
考えたら、土地の所有者に支払われる家賃の出費。
ふむふむ(‘ ‘*)
…
このパラドクスを解消するには、10万円分の権利収入。
それを自分も持てばいいじゃないか(。◕ ∀ ◕。)ノ
10万円分の権利収入で、その土地はタダだ。
方法は色々在るが、実際に別の不動産を扱う手も在るんだろうが
投資という手もある、リートとか。まぁあれも不動産みたいなもんよな。
過去、2%分/月の権利収入が入ってきてた。今はどうか知らん。
500万あれば?
10万/月だ。あんとき解決法の一つだったな(o _ o。)
ま〜あれだ。
不動産権利収入だったら、不動産の価値が崩れた時に家賃も発生しなくなるから、ある意味バランスがとれるのか?
とか、そんなんよく分からんセカイ。
お金で測るとエネルギー分断されて見えづらいの。
本質、空き地タダ。高いように見せかけて、
でも実は別の視点にて収支がつくようになってる。
気持ちの問題なのかもしれない(‘ ‘*)
自給自足もやろうと思えばできるんよな。
10万で借りて10万以上の価値をその土地に見出せばイイのか。
やりようはいくらでもあるんだ。
土地を得るには、あらゆる制度や法律を利用して…とか。
都会の土地は高く映る。都会でやるからムズい。
田舎は安い。田舎なら簡単。
だけど今、在るべき自然の大地が都会に入り込むからこそ、先の意味が見出だせるのだと思う。
消え去るは、都会の土地のパラドクス。
教わるのは自然から(‘ ‘*)
自然から教わる。当然のこと。
自然から読み取れる、様々なことが。
感覚の眠る底に触れて、静かに。そして奮え立つほどに。
もう、学びは目の前にある。
その本当の意味を知ることができる。
コレまでの様々な教えが、一瞬で取るに足らないものとなる。
ああ、自然の前では人は平等とか。思い知らされる。
誰も何者も、自然の歩みを留めることは出来ないのだ。
私は、土地と共に歩み続ける。
私は、自然の言葉に従うのだから
静かに見守るんだ。
ダッチオーブンで焼くアップルパイ
http://ameblo.jp/kamone0316/entry-11625812300.html
これは絶品じゃ(‘ ‘*)
あぷるぱいから仄かに木の香りが。
香ばしい.。.:*・゜
にしてもなるほど。
ガス無くても火所は確保できるんだよな。
しかも、ガスより美味しく火入できる。
七輪とダッチオーブン。
少し時間は掛かるかもだけど。
予め仕込んで弱火におけば、そのまま味わえるし。
火を囲める。みんなで。
夏とか、りんりんりん。
網引いて焼きとうもろこしも美味しそう(。◕ ∀ ◕。)ノ
焼きナス(‘ ‘*)
カレー
冬は鍋
焼きみかん
じゅるり。
炭はどっかで調達じゃな。