理想が理想に近い形で現れる時、
自分はかなり完璧に近い状態なのかもしれない。
「あるがままの、そのままの自分でいいんだよ」っていうのは
まさに「素のままの自分」でいることを心がけてるからこそ言えるのか。
人の世に触れると、嫌でも意にそぐわないモノに触れて自分を曲げてしまうことがある。曲がった状態をそのままにしておくことを「そのままの自分で」と甘える失敗を経験したが、そーじゃないのだ。
「素のままの自分」とは、素の、純粋な自分でいることを絶えず心がけ、魂を磨き続けることなんだ。純粋な、そのままの自分でいられるとき、理想はクリアな形で、そのとおりの現実が引き寄せられるのだろうと考える。
目の前の状況に何か引っ掛かりがある場合。
自分の意志がどこかで曲げられていたり、その意図をよく理解しきれてないのかもしれない。
だから自分を磨き続けることは必須なのだと理解する。
多くの人にとって、理想は、分かりやすい形で現れてくれない。
何か足りなかったり、欠けてたり、合わなかったりする。パズルのピースみたいに。
だけどそれは、確かに理想の世界を示すパズルの1欠片なんだ。
自分のもとに訪れたいくつもの欠片の情報を、よく分析してみる。
何かを見逃してないか、あるがままで完璧な宇宙の投影(たぶん)、を、何かのフィルターで誤って認識していないか。よくよく考える。
例えば、手元のピースを組み替えたり、別の方向から眺めてみたり、新たな欠片を見つけたり、居場所を変えたり、時間を置いたり、他者(石や植物、動物たち、別な世界の人)の斜め上な視点を借りることで、その意味が紐解かれ、理想に繋がる道筋が示される、のかもしれない。そのピースの役割が何で、どのように使えばいいのか。やはり冷静に読み解く必要がある。
どんな理想を描いてるかは、マスター(自分)にしか分からない。
最後のピースは、マスター(自分)自身の意志で完成させるということ。
私たちは、別な人たちの世界で、その願いにふさわしい役割を全うしているのだろうと思う。そんな、宇宙の采配を信頼する。
未来の形がどうであれ、自分は自分の道を行くことに変わりはない。
理想はその道の先に。
◯◯と関わって気が削がれたり憂鬱になったり。
そういうのをエネルギーバンパイアと呼ぶことがあるらしい。
以前、蚊の記事を書いた。
⇒ 乳酸菌スプレーで蚊に刺されない
蚊は、血液が汚れているから寄ってくるって書いた。
乳酸菌で浄化したり断食したりすれば、血は吸われなくなる。
エネルギーバンパイアが寄ってくる場合、自分のエネルギーの在り方に問題がある。
彼らはそれを教えてくれているように感じる。
こんな事をどこかでつぶやいた。
意思なき筋肉とはこれ如何に(‘ ‘*)
エネルギーを使って
体を動かしたり、物事を動かしていくのは、
自分の目的を貫くためだ。
足の爪先から頭の天辺まで、髪の毛の1本1本に至るまで。
自分を構成するエネルギーは、自分の人生の目的のために存在する。
無駄撃ちなんてありえない。
生きる目的が明確なら、蚊が付け入る隙などない!
すべて、願いの実現のために自分を構成するエネルギーは使われる。
何が何でも自分の願いが優先。私は私の道を行く。
その明確な意志が、私自身を完全なものにしてくれる。
ヴァンパイアなど付け入る隙はないのだ。
もし、訳の分からん存在が近くにある場合。
行動の選択の甘さ、そして覚悟の足りなさを、彼らが教えてくれているように思える。
- コメントする
- 人間関係, 日常のこと
- 2014年09月27日
なんか、数ヶ月前くらいから他のことどーでも良くなりだして
自分本位で生きてりゃいいかな?ってなりかけてた。
人のために動いて何になるのだ??
そんな感覚。
しかし、これは言葉の綾でした。
引寄せの法則から学んだ「外に見えるモノが自分自身の内面を表してる」とすれば
他がどーでもいい=自分がどーでもいいになりかけてるのだと。
自分は大切。
だからこそ、自分に関わる他のものも大切。
自分本意に生きることは確かに大事で。
その為に、どういう環境を築いていくか。
どんな場所に行っても、誰かがいます。何かが居ます。
その存在たちと心地よい信頼を結ぶのに、思いやりの気持ちを忘れてはならないのだと気づく。
どうやら他のものがどーでもよくなるほど、自分がどーでもよくなっていたらしい。
(人間の嫌な部分だけ目について、何もかも嫌になってたみたい)
この世は理不尽だろうか?
自分の視点が理不尽だっただけか。
そーゆーのが、知らない内に外観にも現れていたのだと思います。
気づかせてくれたのは、そんな時にも変わらず接してくれた人たちでした。
ありがとう(‘ ‘*)
人は見たい部分を見るようにできてると言われてます。
現実に見えてる部分は、自分の在り方の投影なのだとか。
見たいものを見る。
というのは、心のベクトルが心地いい、楽しい、喜びに向いてる時。
心地いいだったり、楽しいだったり、喜びに満ちた現実が目に映るようになる。
反対に、心のベクトルが、嫌だ、苦しい、足りない、持ってない。に向いてる時。
外の世界の嫌な部分、苦い部分、どうしようもない部分しか目に映らなくなってしまう。
それが、引寄せの法則の大まかなトコだと考えてみた。
他を変えようとするんじゃないよ、というのは。
他はどうにもならないもので、他を変えようとするとき、それは他の嫌な部分を見ようとしているからそうなってしまうのだと。言ってる気がしました。
逆に自分を変えるというのは、外の現実を有りのままに受け止め、そこから自分の心のベクトルを変えることで、目の前の現実に見えるものがガラッと変わる。とも感じました。
現実を見て、自分の心のあり方を問う。
そこに改善点が見つかるかもしれない。
どうしようもないと感じるとき、すっごく囚われてる感覚が押し寄せるが
確かに終ってみると、そんなものどーでもいいのだと(‘ ‘*) 我に返る時がくる。
尊敬できる人。
周りにそんな人はいるだろうか。
考えてみた・・・
何人か居る。何人か。
数えるほどに。
どういうトコに尊敬の念を抱くのだろうと考えた時。
例えば、その芸術性であったり
例えば、その人間性であったり
例えば、その生き方であったり
するのだろうかなぁ。
一番尊敬するのは自分。とか言ったけど
あれは、ある一面でそうであって、全てがそういう訳じゃない。
むしろ大部分において、他の人のほーが優れてるからですねぇ〜。。。
自分は、そういうのを他から掻い摘んできて、
選り好みのパーツパーツで組み立てられたようなもので。
あと、好き嫌い分かれるから、
自分に興味ない部分は目に映らないだろう。。。
視野も好き好きになるのはひつぜんなんだろーなー。
そんな自分が、他の人から見てソンケーに値するものかね?
と、問いかけてみる。
よーわからん(‘ ‘*)
ただ尊敬されるというのは、すこしは嬉しいことですね。
尊敬される自分でありたいというのも(どんな人から?)
自分を律する上で原動力になるのかもしれません。